民間労働組合の結成

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国鉄などの国家部門と前後して民間産業でも、現品川区地域の工場を中心に労働組合が続々と結成された。第211表は敗戦から昭和二十四年(一九四九)までの間に生まれた労働組合であるが、二十年十一月一日品川製作所を皮切りに、敗戦の年には日本理化学工業所に組合がつくられた。翌二十一年(一九四六)一月になると明電舎・品川区役所・荏原区役所・いすず自動車・松下電器などで組合が結成され、続いて二月に日本ペイント・日本光学、三月に寺岡製作所、四月日本気化器、五月芝運送・品川燃料にも組合ができた。二十一年一月から五月が、現品川区地域における労働組合結成の一つのさかりだったとみられる。食糧事情の窮迫による生活不安と、民主化の嵐が吹き荒れた最初の山場である二十一年上期が品川・荏原地域でも同じだったことを示している。

第211表 品川区労働組合結成状況-Ⅰ(昭和20年~24年)
設立年月日 名称
昭和20年11月1日 全国金属東京地方本部品川製作所支部
12.20 総評化学産業労働組合同盟関東地方本部日本理化工業所支部
21.1.14 明電舎労働組合
1.22 東京都職員品川区労働組合
1.25 いすゞ自動車労働組合
1.30 大井工機部労働組合
松下電器産業労働組合東京支部
2. 1 三共株式会社品川工場従業員組合
2.13 日本ペイント東京労働組合
2.19 日本光学労働組合
3.  寺岡製作所労働組合
4.25 日本気化器労働組合
5.10 芝運送労働組合
5.18 品川燃料労働組合
8.21 大江工業労働組合
21.(月日不明) 木下工業(株)従業員組合
22.4.  東京都南部建設労働組合
10.10 全国金属産業労働組合同盟東京地方金属奈良機械製作所支部
22.(月日不明) 藤倉ゴム工業本社労働組合
24.6. 1 五反田自由労働組合

(備考)1. 現存組合に対するアンケート調査(昭和45年6月)
    2. 名称は主に現在の単組名称

 二十一年一月十四日に結成された明電舎品川工場従業員組合は、JOAKからその結成大会のもようが放送されたのも、このころの労働組合の高揚と、社会の雰囲気を反映したものであったといえよう。

 明電舎労働組合の結成大会前後の経緯を『砦のうえに 明電舎労働組合運動史』からみてみよう。

 明電舎における労働組合結成の動きは、まず品川工場からはじまった。敗戦後間もなく品川工場の労働者たちの間で、明電舎にも労働組合結成の話がもちあがった。しかし、一体どういうふうに労働組合をつくるのか皆目見当もつかなかったので、そのうちの一人は、当時城南地域で労働組合のさきがけとして名をはせた蒲田区の石井鉄工所に相談に出かけた。二十年十月だった。結局あなたたち自身でつくりなさいといわれ準備にとりかかった。戦前の弾圧の記憶も生々しい状態だったので、おおっぴらにはやらず、こっそりと進めた。

 「当時品川工場食堂の裏が部品倉庫でしたが、そこに七、八人見張りをつけて倉庫の蔭でどうしたらいいかを相談した。何しろ組合法もできていない頃で、いわば非合法だ。まとまらなかった場合はクビを切られるという気持だった」(前掲書一一ページ)。

 かれらが労働組合結成へ乗り出したのは、労働条件の改善というよりも、明電舎を軍需工場化し、破滅的な戦争に協力した連中に対する怒りからだった。しだいに組織を拡げていくなかで、十二月二十五日ころになると、品川工場の労働者たちは事実上のサボタージュに入っていった。部課長らも翌年一月になると「組合を創ることは認めるから、仕事だけはやってくれ」といってきた。そこで組合をつくるのを確約するなら仕事をやろうということになった。この過程で品川工場の労働者たちは、明電舎の他の工場へも積極的に働きかけ、十二月半ばには川口工場、十二月も暮の押しつまったころ、大崎工場との間に連絡をとった。

 大崎工場でも昭和二十一年正月あけに組合つくりが準備されていった。

 こうして一月八日、まず品川工場で結成準備大会が開かれた。十二日に本社、大崎工場従業員組合結成準備大会が開催された。この両工場の準備大会の上に一月十四日、いよいよ組合結成大会が品川工場で開催された。(1)組合承認……団体協約権の確立、(2)生活費を基準とする一ヵ月の最低賃金のの確立、(3)労働時間の確立、(4)厚生施設の共同管理、(5)経営への参与、(6)婦人の生理的保護、(7)封建的重役の追放の七項目の要求を決議した後、隊伍を組んで大崎工場屋上に集まり、重宗社長に要求書を提出した。この結成大会は集団交渉あるいは大衆団交の場でもあった。重宗社長がマイクの前に立って回答するという方式がとられた。組合は即座に承認され、賃金などについては十九日の回答が約束された。たまたま、敗戦後軍需品を生産していた羽田工場には、資材がその当時で十年分くらいあったといわれていたものがトラックで搬出され、それが行方不明になったという事件が発生した。

 この不正事件追究の火の手が、この集会でもう一つの焦点になった。この事件に関係した重役は、ひとりひとり名前をよびあげられて追及された。重役のうち残ったのは重宗社長のほかわずか四名だった。重役でない役付もかなり追放された。大政翼賛会の役員をしていた者も戦争犯罪人として追放された。これには重宗社長も全員の前で泣きだすありさまだった。腹心の重役が片っぱしから首を切られるのだから無理もなかった。従業員のなかには社長が泣いたのをみて「それ以上いうな」とどなる者もいた。戦争と戦時中の抑圧、非人間的待遇と不正事件に対する怒りと憎しみが一時に爆発したかたちだった。また、組合には事務系・技術系のホワイトカラーはじめ、工作課長・人事課長らの管理職も、ほとんどが加盟していたため、会社内部の事情をよく知っていたことも不正追及をはげしくさせる一因にもなった。

 十九日大会で組合側要求は全面的に承認された。「最低賃金は、親がかり独身者三〇〇円、自力の独身者が四五〇円、家族持六五〇円だったと思う。これがとれたので他の組合でもびっくりした。当時ではいちばん高い水準でみんなこれに右ならえした」(前掲書一三ページ)。

 この最低賃金のほか、各人の賃金は組合代表による査定委員会と、会社側代表との協議決定、厚生施設の協同管理、経営参与も労資双方同数の綜合委員会がもうけられるなどの内容をもりこんだ、画期的な団体協約が一月二十一日成立した。この協約は、高く評価され、明電舎労働組合は品川・荏原はじめ労働界で一躍有名な存在となった(『資料労働運動史昭和20年~21年』七二ページ)。

 日本光学・東芝堀川町工場などのよその工場の組合結成に応援にでかけ、それらの組合の結成大会にしばしば、明電舎労組の幹部が代表として参加した。

 関東電気工学労働組合の準備会が明電舎の講堂で二回行なわれ、婦人部と財政部を明電舎労組が担当(財政部は沖電連品川支部と共同)するなど主要な役割を果たした。

 二月十九日、日本光学従業員組合が同社の大井工場を中心に結成された。ここでは戦前の労働運動の経験をもっている労働者が指導的役割を果たし、勤労部の職員が事務的に援助しながら細胞化がすすめられた。この組合でも工員・職員が一本化した組織として生まれ、部長クラスと人事課長だけが非組合員だった。

 組合代表者には工務課長深井謹次郎(技師)が理事長に選ばれ、結成と同時に次の要求を提出し、団体交渉を申し入れた。

 ①組合並びに組合の団体交渉権の承認、②組合と労働協約締結のため工場委員会の設置、③従業員の最低生活費確保のため、速かなる給与の値上げ実施並びに右実施にいたるまでの生活一時資金の支給、④給与休暇年14日の支給、⑤通勤交通費の会社全額負担、⑥組合と事業主側との協同による消費組合の速かなる創設、⑦従業員の一方的馘首反対、⑧同一職能における男女差別待遇の是正、⑨組合経営参加に対する速かなる方策の実施。

 会社側は大半の要求を承認した回答をした。①承認②労働協約協定のため、協議会を開催する用意あり、③四月より給与の根本的改正を実施すべく目下準備中なるも、二月、三月については臨時給与として生活一時資金を支給する、④承認、⑤通勤交通費補助金支給、⑥趣旨には賛同するも、その方途については別途考慮、⑦人事の根本的権限は使用者側にあるも、条項適用上の疑義に対しては協議に応じ、人事の適正を期す、⑧原則として男女の差等は撤廃する、⑨勤労並びに生産に関し組合との協議会を設置したい、というものであった。二十一年四月一日、軍需を失った日本光学はようやく生産再開にこぎつけたが、資材不足など多くの制約によって経営は危機にひんした。労資で危機突破生産協議会を設けたが、食糧不足・生活不安で従業員の勤労意欲も大きく後退していた。食糧買出特別休暇さえ設けられた。組合側は生産協議会の打ち切りを宣告し、しだいに先鋭化していった。とくに二十一年秋、総同盟と産別会議のいずれに加盟するかで、管理職中心の執行部は退陣し、組合の主動権は青年労働者層へと移行していった。

 自動車部品工場の日本気化器品川工場では敗戦によって八月三十一日付で全員退職し、約七~八〇名程度の残務整理員が残った。翌一日になると労働組合結成の動きがはじまり、三月日本気化器品川労働組合が結成され、四月二十五日品川工場で結成、小山の工場も含めた日本気化器従業員組合が発足するに至った。本部を品川工場に置き、労働協約締結はじめ会社復興慰労金の支給、勤続年数の加算(恐らく敗戦直後一時再雇用された者についてであろう)給与増額、職員工員の差別撤廃、などを要求した。「机をどんとたたけば要求が通った時代であったし、事実この交渉に於いても机がたたかれ、社長を取りまき十五分の猶予の後に労働協約書の締結を迫った」(『25周年記念誌日本気化器労働組合』一六ページ)。一五分後というわけにはいかなかったが、賃金値上げと会社復興慰労金の支給を除いて、要求は翌日承認された。生まれたばかりの労働組合が、こうして要求を大幅に獲得していった。

 昭和二十一年二月一日、三共株式会社品川工場従業員組合も結成された。初代組合長吉川次郎は、同年十月全関東製薬労働組合協議会(略称関東薬協)が結成されるや、その会長をつとめるとともに、翌年四月結成の薬業労働組合全国協議会(略称関全薬協)の会長にもおされた。他方二十一年十一月十七日三共の各地の工場の組合と合同して単一の企業組合ができたときも、吉川が初代組合長になるなど、薬業労働戦線の指導者の任を果たした。

 小糸製作所品川工場でもやや遅れたが、二十一年十一月ころから労働組合結成の準備に入り、まず十二月親睦団体である品川工場従業員クラブがつくられ、翌二十二年八月クラブから本格的な労働組合が生まれた。二十三年十二月静岡・沼津・本社・品川・合田・小糸製作所労働組合連合会(企業連)が結成され、〝事業の発展と従業員の福祉および生活改善〟をスローガンとするおとなしい組合として発足した。労働組合の経験もほとんどなかった多くの組合が、戦時中の産業報国会的な組織を基礎として、急激な変動に対処して、自分の生活を守るための手っ取り早い対策の道であることを本能的に利用した。それだけに要求も切実で闘争も荒々しく、運動として幼稚な面を沢山かかえていたが、しかも、この当時獲得した労働条件や民主化は、戦前、戦争中のそれに比較すれば大きな前進であったし、戦後現在まで労働条件の基本になっているという歴史的意義をみないわけにはいかない。