昭和二十一年のメーデー復活、食糧メーデーの前後に、先の住民運動のはじまりや両区内の労働組合の結成にともなって、六月二十一日品川地区労働組合連合会(略称品川労連)がつくられた。昭和二十一年の半ばは、労働組合の横の連絡が盛んになっていたが、品川労連の発足もその一環であった。品川労連は区内の民主勢力の中心である労働組合を結束し、それ以後の区地域民主化にとって、無視できない存在として発展した。
インフレーションによる実質賃金の低下にたいして区内の各労働組合は、生活を支えていくために、賃金値上げを要求する闘争をくりひろげた。そのなかで、戦前来の職員と工員の身分差別を無くしてゆく職場の民主化も実質的に獲得していった。まず、工員にたいして行なわれていた戦前来の日給制の廃止して月給制がかちとられた。たとえば、明電舎の九月闘争で、職員=月給+五〇円、工員=日給+五〇円という賃金値上げが行なわれたが、あきらかに工員に有利な算定方法で、毎月の賃金では職員・工員間の格差は、ほとんど無くなるという事態が出現した。このとき、きめられた基本給は、昭和四十三年まで運用されたから、第二次大戦後における職員・工員の格差縮小は、敗戦直後の労働攻勢によって確立されたといえる。
また、戦前はボーナスといえば職員だけで工員には出なかった。職員のボーナスは一回に何ヵ月分も出る(ある工場では景気のよい時など九ヵ月分も出たこともあった)のに、工員には手拭一本とか一ヵ月分にもならない僅かな額が支給されるのが、通り相場だった。この慣習も昭和二十一年暮の越年闘争あたりから、まるで変わってしまった。職員・工員一律に年末手当が支給されるようになったのである。しかも、上役から一人づつよばれて、のし袋に入ったボーナスは、もらうまで中身がいくらなのか、見当もつかないのが普通であったものが、がらりと変わって労働組合が要求し、越冬資金とか年末手当と名称まで変わってしまった。
職員・工員間の賃金支払方式や、年末一時金の一律支給は、職場の民主化の上で画期的な意味をもっていた。明電舎の組合は、この闘争でも、品川・荏原区内の各組合に大きな影響を与え、先導的な役割を果たした。