二・一スト不発

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民間産業では、こうして昭和二十一年一月実施された金融緊急措置令による五〇〇円生活の枠を破っていったのに、国や都・区などの公務員や教員は、せいぜい一〇〇円くらい上がっただけで、月二、〇〇〇円なければ最低限の生活もむつかしいというころ、六〇〇~七〇〇円の収入しかなかった。このころ区の職員や教員たちの生活は、区内でも、一ばん低い階層に落ちこんだのではないかといわれるほどだった。昭和二十二年二月一日に計画されたゼネラル=ストライキは、この公務員の賃金値上げを出発点としたものであった。ところが、二・一ストはGHQのマッカーサー元帥の指令によって中止されることになった。労働組合内部では、ストライキを中止すべきか、あくまで実行すべきかをめぐってはげしい議論が交わされた。

 二・一ストの中心勢力ともみなされていた国鉄労働者で、当時闘争委員であり、国鉄の青年行動隊を掌握して闘争を進める統制部長の任についていた鈴木勝男は、その時の思い出を次のように述べている。

  「国鉄は加藤閲夫が委員長、鈴木市蔵が副委員長だった。二・一スト妨害の暴力団が押し寄せて来るというので私は行動隊を組織して防衛に当たっていたが、会議に出てみると、まだ伊井弥四郎のスト中止の放送が行なわれる前だったのに雰囲気がおかしい。『闘争をやめるか、どうするか』という話をしていた。私は『スト中止は納得できない』と主張したが、そのとき党では既に二・一ストを集約するという方針が決まっていた。党の指導部は運輸省の地下におかれていた。そこに徳田球一が坐りこんでいた。党の方針によって二・一スト収束の国鉄の中央委員会が開かれていたところへ、私が呼ばれて入っていったわけです。私は『何としても理解できない、アメリカ軍の弾圧は覚悟の上ではないか。たとえ伊井弥四郎が殺されたからといって闘争を収束するのはおかしいじゃないか』と主張した。このころになると国鉄の中央委員会の九割方は党員とみてよい状況でした。前の年の八万人(七万五〇〇〇人――引用者注)の首切反対の時も、伊井弥四郎や鈴木市蔵らは裏切ったというか、妥協しようとした。……それで、私は……議長をやっていた鈴木市蔵につめより『また裏切るのですか』とつめよる一幕もありました。しかし、採決ということになって、一八対一で国鉄としてはストライキ中止を決定してしまった。私は絶対承服しかねましたが、そこへ、事実上、ストライキに突入していた電車区の組合員たちが『いまさらストをやめるというのはどういうことだ』と抗議にやってきたのです。一八対一で中止がきまったと話すと『反対の一票は誰だ』ということになり、それが私だとわかって、やっとつるし上げられずにすんだ。」(「鈴木勝男氏に聞く」)。

 共同闘争に参加していた区内の民間の労働組合でも二・一スト中止をめぐって議論が白熱した。大勢はストライキ決行に傾いていた。三十一日午後四時、伊井弥四郎がスト中止放送をした後も、全電工としての方針をきめるために明電舎の品川工場の二階組合事務所に、全電工の在京執行部が全部集まった。ここで引くべきか、決行するか、夜を徹して議論が行なわれたが、結論は出なかった。決行組も中止組も双方とも、共産党員だった。党からは何も指示がない。「共産党員と共産党員がいまにもつかみ合わんばかりの論争をした」(前掲書一四ページ)。

 また、二・一ストで幹部が検挙されたら第二執行部選出を相談してきめたり、ゼネストは中止になっても各組合が独自にやるのは、占領軍に対するデモンストレーションにもなるし、ゼネストではないからという意見も強かった。とくに各組合の青年行動隊はスト決行を迫った。ある組合では、青年行動隊が激昂のあまり、泣いて決行をうったえる、あるいは小刀を抜いて決行を迫るなどの場面もあった。

 二・一スト不発を境にして労働組合は、全体として攻勢から守勢に転換し、しだいに後退していった。しかし一方では、二・一スト準備の過程でもり上がった勢いが、そのままでおとなしく引っこむはずもなかった。ストライキこそ不発に終わったが、二・一ストで労働組合が要求していた内容は、その後、ほぼ実現した。賃金値上げも一、八〇〇円程度獲得したし、吉田内閣では治安が維持されないとみた占領軍は、さっそく総選挙をやらせて、第一党になった社会党の片山哲を首班とする中道内閣が実現した。これも、二・一スト準備に結集した労働者の力によるものであった。また、かなり労働者側に有利な労働協約が急速に普及したのも、その成果の一つだった。たとえば、懸案だった大井工機部労働協約が、この年の九月六日締結され、十二月に第一回経営協議会がもたれた。