労働組合の後退とレッドパージ

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二・一スト不発以降労働組合は、しだいに守勢に立たされるなかで、翌昭和二十三年三月、全逓信労働組合などを主力とする三月闘争がくりひろげられた。ゼネラル=ストライキができないのであれば、地域での闘いをという戦術転換によって地域人民闘争が行なわれるようになった。というのは、敗戦時にはまだ存在していた莫大な資材ストックが底をつき、日本経済は、深刻な経済危機に落ち入った。電力・石炭などの基礎的な産業部門における生産力の荒廃ははなはだしく、昭和二十三年三月危機が叫ばれていた。区内のある工場でも同年六月から賃金をきまった日に全額支払うことができなくなった。昭和二十四年八月にはついに二ヵ月遅れで、その上一ヵ月分の賃金を九回に分割して支払うひどいありさまだった。渡される賃金がいつの分なのかわからなくなるほどだった。組合員の生活は極度に苦しくなった。組合は毎日経営協議会で追求し、会社の集金係のところに張りついて、「一本(百万円)入った」と連絡をうけると、それとばかり、交渉してすぐ支払わせるという緊迫した状態だった。会社で働いていても賃金がいつもらえるかわからない不安なことでは、飢死するおそれもあるため、会社をやめる者や、休んで買い出しや、よそへ仕事を求めにゆく者もでてきた。職場放棄は、こういった条件のなかで自然発生的に生じた面もあったのである。昭和二十三年八月には再び全国的なストライキが行なわれる気運が高まっていった。これにたいして七月二十二日マッカーサー書簡が発せられ、これにもとづいて加藤勘十労相は「政令二〇一号」で国家公務員に対して争議行為を禁止するに及んだ。

 公務員にたいするストライキ権禁止と並んで労働組合に追い打ちをかけたのは、共産党員や同調者に対する首切り、レッド・パージだった。

 昭和二十四年一月十七日明電舎でも組合の指導者、活動家一六名(本社四名・大崎四名・品川八名)の懲戒解雇を申し入れてきた。たまたま中央執行委員会を開催していたところへの会社の申し入れに、ある組合員は「首切りだろ」と発言した。情勢はそれほど険悪になっていた。会議はただちにこの対策会議に切りかえられた。一、作業態度が悪い、二、協調性がない、三、作業上失敗が多い、四、同僚との折合が悪いという理由で懲戒解雇するという内容だった。組合はことの重大性から各工場の選考委員会を合同選考委員会にして協議することにし、解雇に反論するため、まず該当者から事情聴取を行なった。組合は団体交渉で「会社の理由はあくまでも表面的な理由であって、真の意図は、過去において、組合活動を積極的に行ない、今後もいっそう活動しようとしている者で、かつ共産党員が大多数であるところから、共産党員を会社から追い出すことであり、悪質極まるものである」と主張した。一六名のうち三名は自主的に退社、一名は会社が解雇撤回した。しかし組合は三月闘争以来の左右の対立のため、反対闘争を強力に組むことができなかった。やむなく法廷闘争の方針を決め、東京地方裁判所に地位保全の仮処分を申請し、同時に東京都地方労働委員会に、不当労働行為で提訴した。解雇該当者が執行委員として、経営協議会委員として出席すると、交渉に応じようとしない、組合側は係争中だからまだ解雇者でないと反駁するなど、混乱が続いた。

 大崎工場の旋盤職場では三名の該当者を出したため、組合全体として闘争が組織されないので、職場単位で職場放棄の闘いを行なった。会社はこれを山猫ストだとして、さらに処分を主張するなどの紛争が起こった。だが、該当者も決定的な大衆闘争にもっていけないことから、八月には、ようやく自主退職という形になってしまった。このようにレッド=パージを許したのは、当時の左派勢力が、まだ労働者大衆の心底からの支持をうるに至っていなかったこと、左右の分裂・感情対立が強かったこと、さらに左派としての独自の組織が確立していなかったことなどに主な原因が求められよう。

 ところで、一六名に対する解雇は、そのときの執行委員長が述べているように「表面的な理由とは別に、戦闘的組合員の解雇であり、その目的とするのは、やがて十月に決行すべき企業整備七〇〇名の首切りにつらなる外堀埋めの手段であった」。事実、その年の十月、ドッジ=ラインのもとで、本社・大崎・品川で四三四名の人員整理が実施された。労働組合側が、後退するなかで、さらに追打ちをかけられたのが昭和二十四年定員法によるパージであった。

 昭和二十四年六月一日公共企業体等労働関係法が施行された日に、東鉄で乗務員の新交番を実施しようとしたのに対して、組合員が、これを拒否し、ついに六月十日の人民電車事件となった。京浜東北線はその中心になった。

 国鉄労働組合は、これに対して非常事態声明を出した。民主化同盟は本部のこの方針に反対する動きを示した。民主化同盟が指導権をにぎっていた大井支部は八月五日「中闘の非常事態宣言に対して具申書」を発表し、中闘からの回答書をめぐって八月二十四日臨時大会を開き、中闘不信任・大井支部闘争委員会の解散を決議した。

 大井工場では行政整理が第212表のように行なわれた。その年の暮、日本で初めて監督者訓練が労働省によって、大井工場で実施されたが、行政整理の上にいち早く戦後のアメリカ式労務管理が導入されたことを物語っている(「都政十年史』四三八ページ)。

第212表 大井工場における定員法による行政整理人員
免職者 辞職願提出者
57 115 172
第1次 43 5 48
第2次 14 40 54
第3次 70 70

(備考) 『大井工場90周年史』183ページより

 この行政整理で対象になった一区民は、その後の生活苦を次のように語っている。

  「私が国鉄をやめさせられたのは、第一次の行政整理でした。当時十九歳をかしらに子供六人、一ばん末はまだ二歳でしたか、をかかえて、失業したのですから、生活はゆきづまってしまいました。五反田の職安に行って頼んだが、八人家族を養ってゆく賃金で就職するところは、なかなかみつからない。……そこで安定所の所長が、生活保護という制度があるというので、民生委員に紹介状を書いてくれました。……子供が高校へ進学しようとしても教育費がだせない。女房から『あんたのやっていることは立派だけれども、子供の向学心までおさえてしまうようでは困る』と非難されるしまつでした。私は、ふた晩がかりで、なぜ私がこんなに貧乏までして闘っているのか、涙を流しながら説得したら、子供のほうでわかってくれて、進学はあきらめるといってくれました。女房もわかってくれました。ところが、こんどは就職試験で合格しても、私の名前をみて、……結局、それもだめになってしまったのです。そのときは弱りました。どうにか、ある病院の事務員に就職できましたが。そういうことで、あとの子供も全部義務教育だけしかやれませんでした。しかも、子供の一人は重い結核にかかり、一時は危篤状態になったのですが、その時、私は次々に闘いが忙しくて、連絡もとれない。このときばかりは、女房が怒りました。女房は、子供と一しょに一家心中まで覚悟したこともあったのです。やがて、女房も私を心底から理解してくれるようになり、一しょに闘うようになってくれました。ただ、子供たちのなかには、私らの闘いが正しいこと、日本の社会をつくり直していく以外に道はほかにないということを知っていても、あまりにも生活が苦しい、子供の進学もさせられないみじめさを味わっているために、私らと一しょに闘うのに、ためらうという傾向があるのです。私は生活苦よりも、この問題が一ばん大きな悩みでした」(「鈴木勝男氏に聞く」)。

 戦後の民主化と復興は、こういった人々の苦闘と犠牲の上に行なわれた。とくに、定員法の場合は、解雇後、裁判に訴えたのを、「日和見主義」だといって取下げたため、「訴権をほしいままにした」という理由で、裁判史上あまり例のない一審却下となり、二審で、現在なお係争中の人がいるけれども、次のレッド=パージではかなり勝訴しているのに対して、ほとんど保障が与えられていない。

 民間でも、昭和二十四年二月二十八日、品川地区労傘下の賃金遅欠配工場が共同して、品川区役所に生活保護法適用を陳情したり、四月十六日には京浜生活防衛区民集会で失業反対の運動が行なわれた。昭和二十四年三共株式会社でも企業整備が行なわれ、それに反対するストライキが行なわれた。

 翌昭和二十五年朝鮮戦争が勃発して、特需が区内の工場にも及んできて、はじめて経済復興は軌道にのることができた。しかし、同時に占領軍の指令でレッド=パージが行なわれ、区内でもほうぼうの工場で共産党員あるいは党員とみなされた人々が、職場を追われた。国鉄大井工場でもレッド=パージが行なわれ、「企業防衛について」という題目で組合側と当局側がレッド=パージの基準について交渉に入った十一月十日の朝、同工場用品庫の一労働者が動力職場の煙突に昇り、「民族の独立、越年資金二ヵ月よこせ」と書いたのぼりをぶらさげ、レッド=パージに抗議した。滞空五日間頑張り続け、十五日午後五時三十五分ようやく地上に降りたが、そのとき、煙草の空箱の裏に、かれが書いた歌が、戦後一時期を風びした「民族独立行動隊」であった。その労働者は後に作家になった山岸一章であった。同じ年の五月十八日、二十九日、日本光学でも企業整備、工場閉鎖をめぐって二十四時間ストライキ、二十六日品川地区総決起大会などが行なわれたが、大勢は労働組合側にしだいに不利な状態になっていった。

 関東配電(現東京電力)でも、多勢のレッド=パージが行なわれた。なかでも大井支社は、もっとも該当者が多くこれらの人を中心に連日職場集会が、熱っぽく行なわれ一部では警察官との攻防戦も繰りひろげられたところもありましたが、占領軍の指令でやむをえないということもあって、それほどの混乱も起こらなかった(「木村純氏に聞く」)。