新しい区労協の発足

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昭和二十五年ころを境に区内の労働組合は、共産党から社会党にその指導権は移っていった。昭和二十六年二月一日、国鉄労働組合の組織改革にともなって大井支部は一度解散して、大崎被服工場を分離して、新しく発足した。また、同じ年の五月には国鉄労働組合から機関車労働組合(現在の動力車労働組合)が分れて、本部を五反田三ノ二に設置し、独自の活動を行なうようになった(「志村源一氏に聞く」)。

 こうして組織再編成をつづけるうちに、昭和二十六年ころ、単独講和条約をめぐって、議論がまき起こるとともに、一時期後退していた労働組合側も区内の各工場や事業所でいきをふきかえし、再び活発な動きをみせるようになった。たとえば昭和二十七年の年末闘争で、大井工場は賜暇闘争という新しい戦術をとった。この一せい賜暇闘争は、ストライキ権を制限された組合の新しい実力行使であり、この大井工場の闘いは全国鉄のなかでも先がけとなった(『国鉄労組東京地方本部の20年史』四七四ページ)。昭和二十八年の暮も事実上のストライキ=順法闘争でもって闘い組合側は守勢から攻勢へと移ったといわれた。昭和二十九年も大井工場では、当局側が組合費を給料袋から天引する事務を拒否したのに対して、職場大会が行なわれるなど、しだいに労使の対立は再び厳しいものになっていった。

 民間でも、昭和二十六年ころから区内の建設労働者・職人(一人親方)たちも、健康保険の適用を要求する運動をくりひろげ、二十九年一月、日雇健康保険が適用されるようになった。これは、全般に遅れている社会保障闘争の面では、注目される動向であった。この闘いを基礎に昭和三十年四月二十四日、中延に東京都建設組合が誕生したのである。昭和二十七年九月小糸製作所の労働者は総評全国金属に加盟、二十九年の年末一時金闘争では十四日間のストライキを行なうなど、地域における中小企業の一つの拠点に成長していった。また化学同盟の日本理化工業所支部も、昭和二十九年二月、三日ストライキを行なった。

 なお、昭和二十五年以降の品川区における労働組合の結成状況は、第213・214表のとおりである。

第213表 品川区労働組合結成状況―Ⅱ(昭和25年~30年)
設立年月日 組合名称
昭和25年 4月 東京荏原青果株式会社並関係会社従業員組合
  25.(月日不明) 東京都職員労働組合保健所連合支部荏原分会
  26.12.7 全厚生職員労働組合国立予防衛生研究所支部
  27. 3. 前田道路株式会社職員労働組合
  28. 4.1 朝日生命外務職員組合五反田支部
    10.1 新産別全国機械金属労働組合宇都宮社支部
  28.(月日不明) 全国電気通信労働組合東京通信局支部東京料金局分会
  29. 4.1 東京交通労働組合自動車目黒支部
  30. 3.1 日本レギュレーター労働組合
     4.24 東京都建設組合

 備考 1. 現存組合に対するアンケート調査(昭和45年6月)
    2.名称は主に現在の単組名称

第214表 品川区労働組合結成状況―Ⅲ(昭和31年~調査時点)
設立年月日 組合名称
昭和31年11月1日 日放印刷労働組合
  32.1.27 動力車労働組合職員組合
    8.13 新産別全国機械金属労働組合戸室製作所支部
  33.4. 電機労連ソニー労働組合品川支部
    11.15 全日本労働総同盟全国化学一般労働組合同盟佐藤製薬支部
  34.4.10 東京都建設技術者同盟
    9. 日本演奏家労働組合
    10. 日本ガス圧接労働組合
    11.20 東海運輸従業員組合
  35.5 大井競走労働組合
  36.1.20 小林脳行労働組合
    7.1 勝亦電機労働組合(東京支部)
  36.(月日不明) 東京都小型自動車競走会労働組合
  37.2.27 全陽社労働組合
    9.20 明製作所本社品川工場労働組合
    11.  全化同盟昭和ネオンエ業支部
    11.16 津止合金工業労働組合
  38.5.1 電機商工所労働組合
  40.1.24 ニコン労働組合
    1.29 日本自動車産業労働組合連合会全日本部品製造労働組合険山製作所支部
    5.11 全国金属労組東京地方本部品川地域支部日本ファクス分会
  41.7.9 全金同盟東京地方金属タイコー支部
    8.29 晃信労働組合
  43.4.1 トヨタ南東京オート労働組合
    11.1 自動車労連全日本部品製造労働組合東京地区市光工業支部
  44.5.26 全織同盟千本松労働組合品川支部
  45.4.1 三井銀行従業員組合東京事務センター支部
    5. 東京都労働保育指導員労働組合品川支部

(備考)1) 現存組合に対するアンケート調査(昭和45年6月)
    2)名称は主に現在の単組名称

 こういった組合側の状勢を背景に、昭和三十年、新しく品川区労協が発足した。桜井政由・野間千代三・小野均・川上正男・木村純といった人たちが、きもいりになって、それまでの品川労連と品川共闘の合同をはかって、結成したものであった。最初社会党系といわれていた品川共闘の側から、共産党の指導力の強い品川労連に合同申し入れを行なうことによって口火が切られた。レッド=パージで後退していた共産党系もこの頃になるとかなり勢をもりかえしていた。

 「たまたま、私の属していた東電はどちらにも入っていませんでしたので、なかだちをする役割がまわってきたのですが、はじめは共産党系は、合同申し入れに難色を示していたのですが、当時労働戦線統一の気運がもり上がっていたために、合同反対の組合は取り残しても統一しようという強い主張が出されたため、それほどきつい反対もなく、大同団結が実をむすんだわけです」(「木村純氏に聞く)。

 この労働組合路線の統一は、それ以降の品川区の政治動向に一つの大きな転機をもたらす重要な基盤となった。その一つのあらわれが、「この大同団結をバックにして、それから後というものは、積極的に労働組合関係を代表する人々が、あいついで政治の場に進出してきた」(「木村純氏に聞く」)ことである。そして、やがて、この勢力をさらに基盤にして、後の区長準公選と革新区長の出現がもたらされたのである。