戦後への訣別と高度経済成長

895 ~ 896

昭和三十二年二月の雑誌『文芸春秋』に、中野好夫の「もはや戦後ではない」という文章が掲載された。それを契機として、ジャーナリズムでは、戦後は終わったかどうかの問題がやかましく論じられた。

 もちろん、戦争が残したさまざまな傷あとは、わずか十年余りの歳月で消え去るものではない。しかしながら、戦争によって蒙った打撃から立ちあがり、戦災復興をもっぱらめざして歩んできた日本の戦後社会が、昭和三十年代にはいるとともに、ひとつの転換期に立つに至ったことは否定できぬことであった。

 そのことが最もはっきりと認められたのは、この時期における日本経済の飛躍的発展であった。敗戦の翌年の昭和二十一年には、戦前(昭和九~十一年平均)の三割に落ちた日本の工業生産は、三十四年には戦前の四倍ほどにふくれあがった。欧米の識者のあいだに驚きと恐怖を与えたといわれるこのめざましい日本経済の復興と発展ぶりは、たんに経済の量的発展にとどまるものでなく、日本の産業構造をいちじるしく質的に変革し、さらに国民の消費生活の内容を一変させるものであった。

 もちろん、このことは、区民生活にも大きな変化をもたらした。とくに、戦前から京浜工業地帯の中核をなしていた区内の工場地域は、戦災と戦後の停滞から立ちあがったばかりではなく、戦前をしのぐ量的発展をとげた。しかも、この時期における経済発展の主要な動因となった技術革新にともなって、電子工学や石油化学に関連した工業上の変化が、直接・間接に区内の工場にみられるに至った。また、区民の消費生活の面では、衣・食・住のすべてにわたって、戦後色は一掃され、家庭電化や団地生活という新しい生活パターンが展開されていくことになるのである。