ミッチーブーム

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安保改訂の年に先だつ昭和三十三年十一月二十七日、皇太子殿下と日清製粉正田英三社長長女美智子さんとの婚約が、正式に宮内庁から発表された。このことは、すでに『週刊明星』の記事によって知られてはいたが、品川区民にとってはとくに大きなニュースとして受けとられた。正田家は、区内池田山にあり、従って、品川区民から皇太子妃が選ばれたことになるからである。それ以来、池田山の正田邸は、あたかも区内の名所のようになった。

 三十年代にはいってからの経済的好況の連続は、ただでさえ国民の気持を繁栄と太平のムードにむかわせるものであったが、皇太子の婚約発表は、いっそうこのようなムードに拍車をかけるものであった。とくに、皇太子妃が、従来の伝統を破って民間から選ばれたということは、国民に対して、天皇家への親近感を与え、戦後の民主主義が完全に社会的に定着したという印象を与えた。このような印象が、象徴天皇制といかなる関係をもつかについての論議がなかったわけではないが、婚約発表を契機としての皇室ブームは、きわめて強烈なものがあった。

 婚約発表まで、きびしい報道管制をしかれていたマスコミは、発表後はこの結婚問題を大きくとりあげ、軽井沢でのテニスをめぐるロマンスや、ミッチー=スタイルなどをとりたてて、いわゆるミッチー=ブームをつくりあげた。

 翌三十四年四月十日の結婚式が近づくや、正田邸の前は、祝賀の人の波でうずまった。とくに、地元民の熱狂ぶりについては、当時の新聞は、次のように報じている。

 

皇太子さまとのご結婚を間近に控えて、このところ正田美智子さんの地元、五反田かいわいの商店会、町内会では連日お祭り騒ぎを演じている――七日、下大崎連合町会(村田潔会長)では、午後六時半約二千人が近くの雉子宮神社に集まり、五反田周辺を練り歩いたのち、池田山の正田邸まで提灯行列を行なった。

 美智子さんを一目みたさの群衆は、邸前に来ると連合会加盟の十三町会ごとに立止り万歳を叫ぶ。美智子さんはそのつど、二階の窓から濃茶のスーツ姿を現わし、自分も提灯を片手に、手を振って応える。邸前は約三十分間、歓呼の人波で埋まってしまった。八日午後二時からは五反田周辺三十二町が挙げて旗行列を行なう。(『東京新聞』昭和三十四年四月八日)

 

 結婚式当日、午前十時から品川公会堂で品川区民奉祝大会が開かれ、約千人が出席したと、新聞は報じている。しかし、この奉祝大会以上に品川区にとって大きな行事は、皇太子妃となった美智子さんの名を正田家の戸籍から除く事務手続であった。島本区長は、「一日でも美智子さんを内縁の妻にして置くわけにはいかない」という理由から、「式典と同じ時刻に除籍すべきである」という意見書を出し、「事務手続きだから翌日で結構」という宮内庁を説き伏せ、「斎戒沐浴」して当日除籍事務をすませたという(資・五五二号)。


第173図 結婚式当日,区長室にて行なわれた除籍事務