高度経済成長に基づく繁栄のかげには、必ず日の当らない部分がある。それは、経済成長がもたらすさまざまな問題のしわよせを受ける部分にほかならない。そのような問題への措置は、社会保障や社会福祉の対象として、区行政の課題となる。昭和三十四年に国民健康保険制度が、同三十五年国民年金制度が実施されたのも、このような課題への対応であった。
区立の小中学校の教室がふえ、その施設が充実したとしても、就学年齢に達しながら、小中学校に通うことのできぬ子供がいる。とくに、知能指数五〇以下の知恵おくれの重症児の場合は、小中学校の特殊学校にもはいることができない。社会の教育への関心がたかまり、その内容が充実すればするほど、それらの児童たちのハンディキャップはますます大きくなる。品川区内には、そのような重症者が、十八歳未満のもので、五〇〇名を数えたという。
このような不幸な子をもった親たちによって、昭和三十一年五月、都内唯一のこれら重症者を受けいれる私立「わかくさ学園」が、都立品川児童相談所三階に発足した。ところが、同三十二年十二月、消防署・民生局から立ちのきを迫られ、大井伊藤町に移転した。その建物も、九〇平方メートルそこそこの木造(二教室・炊事室・宿直室)で、そこに平均知能指数三〇の園児二五人が、一日交代で通園した。もとより認可基準にあてはまらないために、法的保護を受けることはできず、経営はきわめて困難であった。
その後、三十五年、共同募金の臨時配分金と品川区福祉協議会からの資金によって、木造平家建一一五平方メートル(三教室・ホール・職員室・炊事室など)の園舎が建設された。しかし、この学園は、親たちの払う月謝(月四〇〇〇円)と、ほそぼそとした文房具行商の収益金で賄っていくよりほかに方法はなく、従って、保母をはじめ事務職員の待遇も決して恵まれたものでなく、その経営は、個人の善意や奉仕に委ねられた。
この私立「わかくさ学園」の事例は、高度経済成長下における品川区の、社会福祉の実態の一端を示すものである。品川区において、心身障害者福祉センターの設置計画に踏み切り、「わかくさ学園」への財政援助をおこなうに至るのは、昭和四十年代にはいってからのことである(資・五三四~五三八号)。