(ロ)同郷者出身で固めた工場

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旗の台にあるH製作所は大手のN光学・K光学などの下請けをするカメラ部品工場である。社長は長野県伊那の出身で、昭和初期から終戦までN光学に勤務していた人であり、昭和二十六年にこの工場を設立した。工場の従業員は男子一七名、女子五名であるが、社長の郷里長野県人がそのうち、男子九名、女子三名と半数以上を占めている。これは最近小工場は求人難から郷里に縁故をたよって求人し、また求職者も、同郷人が多いという気安さからそこへの就職を望むという傾向の強いことを物語っている。また、この工場には他に、茨城県の同郷の出身者が三名いるが、これは廃業した同業企業の従業員をそのまま引き取ったもので、旧経営者はその地方の出身者であった。

 この工場の従業員の平均年齢は、男子二十七歳、女子三十二歳であるが(女子は四十九歳が一人あるために高くなっている。)、賃金は固定給と能率給とから成っており、その比率は能率給の割合がやや高く、高給者になると約一〇万円の手取りがある。

 この会社では三十代を過ぎると独立して、経営者となり主としてこの会社の再下請の仕事に転ずるものが見られ、昭和三十八年から四十年にかけては四人がそのようにして独立している。この場合、会社では工場の中古機械を格安に分与し、また資金的な援助もして一本立ちさせるものである。これら独立者はいずれも二、三名の従業員を雇傭して、この工場製品の賃加工に従っており、その所在地は、区内に二、他は大田区・川崎市である。

 このように中小工場では、従業員が数年から十数年勤務して、技術を身につけたのち独立する傾向がよくみられる。とくにこの高度成長期においては、この独立化の動きが激しかったようであり、これが区内の小工場の異常な増加の原因をつくっているとみることができよう。