戦前から品川区の代表的地場産業として名高かったアメリカ向けを主とする輸出用クリスマス電球工業は、零細工業の典型ともいえる業種である。この業界の戦後の復興は早く、すでに昭和二十二年から輸出が再開され、その後、順調に生産量の増大、業者の増加をしめしながら三十年代に入った。しかし、その間には、多数の零細業者の乱立と、問屋制的な生産機構がわざわいし、業者間の競争の激化が、いたずらに数量輸出に走り、低価格競争を招くという弊害をともなっていた。そのため、業界は昭和三十三年に日本輸出クリスマス電球工業組合を設立し、自主的な調整を行なうようになり、いちおう生産や価格の安定を見ることができた。だが、このころから、わが国経済の高度成長によって生じた大都市での労働力の不足や、労働賃金の上昇は、低賃金を基盤とし、手工業的な技術でなりたっていたこの工業にとって、影響するところが大きくなり、設備の近代化による生産性の向上や、豊富な労働力を求めての工場の移転などが、真剣に考えられるようになった。
そして、昭和三十七年から練られていた工場の地方への集団移転計画が、秋田県からの誘致もあって、三十九年秋田市郊外に実現し、一八工場が移転し、新しい設備のもとに約五五〇人の従業員を使って生産を開始した。当時秋田での賃金は、日給三二〇円で東京に較べて月額で三、〇〇〇円ほど、安かったといわれる。
しかし、当時、移転した工場は秋田のほか、茨城県や都下五日市に移転した工場を含めても、全メーカー数約三六〇工場のわずか六~七%に過ぎず、品川区内には四十年でも一六二の組合加盟工場が存在していたのであり、零細工場としての体質は依然として改められていなかった。これら在京の工場も機械化の導入によって労力を節減し、コストの低下につとめたことや、また三十年代から四十年までは需要の伸びが継続していたので、一応の経営は成りたっていた。ところで四十一年以降になると、その事態は急激に悪化してくる。
それは、需要の伸びが停滞のきざしを見せ始めるとともに、三十年代後半から除々に盛んとなって来た発展途上国、台湾・韓国・香港などの生産が、その安くて豊富な労働力を基盤として、いちじるしい発展を遂げ始めたことであり、それとの価格競争において苦しい立場に追い込まれたことであった。
そのため、昭和四十三年ころから小工場のなかには採算がとれず、倒産・転廃業をする業者が続出して、衰退の気運を示し、組合加盟の工場も昭和四十六年には全国で六七工場、品川区では四〇工場という激減をみるに至っている。とくに、その後の経済上の変化、四十六年のドルショック、四十八年の円の実質上の再切上げは、発展途上国との価格競争の上で、この業界にとっては致命的な打撃をあたえられたものといってよい。
このように、安くて豊富な労働力と、伝統的な技術によって支えられてきた品川区のクリスマス電球工業も、わが国工業の全般的な高度化という体質の変化によって、衰退を余儀なくされたものということができる。
しかし、業者の多くはインテリア照明用特殊電球や、常夜燈・電算機の計数管製造などへの品種の転換によって対応しており、区内の電球工業自体の数や、生産量はそれほどの衰えを見せてはいない。また、秋田の移転工場のなかには、クリスマス電球製造の設備機械を台湾や韓国へ輸出し、資本進出をとげたものもあり、また、工場設備と安い労働力を利用して、電子部品工業へと転換したものも見られる。