住宅の復興は、衣食の生活に比較して、昭和三十年代にはいっても著しく立ちおくれていた。区内の住宅を建築時期によって分類してみると、三十年代の住宅建設が漸次減少していることがわかる。上の図によっても明らかなように、住宅建設の最も多かったのは、昭和二十六~三十年であり、二四%を占めている。同三十一~三十五年は二一%、三十六年以降は一六%にすぎない。
この原因の第一は、土地の入手難にある。とくに区内の空地はきわめて少なく、仮りに空地があったとしても、その価格は暴騰して庶民には手の届かないものになっている。以上の点に加えて、建築資金難もまた個人による住宅建設を困難にした。高度成長に付随するインフレは、庶民が蓄えた建築資金の価値を著しく下落させ、逆に建築費を高騰させたのである。
このような事情から、個人住宅の建築はきわめて困難であり、住宅への要求は、公営住宅に依存せざるをえなかった。しかも、戦中・戦後に建設された木造の都営住宅にかわって、都や住宅公団等の鉄筋コンクリートの中層アパートが建設され、これに入居希望者が殺到した。昭和三十七年、東京の日本住宅公団住宅への申込競争率は、五二・五倍という高率であり、住宅難の深刻さを物語っているが、いわゆる二DKの鉄筋アパートこそ、住宅に困窮した庶民の大きな夢であった。
これらの住宅は、団地住宅の形態をとった。それは、これまでにみられなかった新しい居住形態にほかならなかった。従ってそこには、住民の意識や、人間関係をめぐっての新たな問題が発生した。「団地族」という新語の誕生も、そのことに関連したものといえよう。