NHK東京地区におけるテレビ本放送が開始されたのは、昭和二十八年二月一日であったが、受信契約数は八六六にすぎなかったという。当時、テレビ受像機の価格は、一四インチで約一七万円であったというから、テレビの大衆化はなお道遠しの感があった。その後、同年八月には、民間テレビ局の本放送も開始されたが、当時のテレビ番組を評して、「電気紙芝居」とか「一億総白痴化」などと酷評する風潮が強かった。それにもかかわらず、契約数はきわめて急速に増加して、二十九年三月には一万六七七九、三十三年三月には九〇万八七一〇になった。
「主要耐久消費財の普及率の推移」(第197図)を見ると、全国の都市世帯で、最も急上昇のカーブを示して普及率の増大しているものはテレビである。三十五年二月における都市のテレビ普及率は、四五%に達し、電気洗濯機の四一%を僅かにしのぎ、一〇%前後にすぎない電気冷蔵庫・電気掃除機の普及率をはるかにうわまわっているのである。論理的には、家庭電化器具によって家事労働の省力化をはかり、そこに生じた余暇を楽しむためにテレビが普及することになるのであるが、現実には、テレビの普及が先行していることが知られる。
品川区におけるテレビ普及状況を、東京都二三区との比較においてみると第198図のようになる。区内における普及率は、三十四年度で三〇・五%、三十五年度で三八・五%となっているが、東京都二三区のそれぞれの年度の三三・九%、四二・七%に比較して、品川区が低い普及率であることがわかる。しかし年々の上昇率においては、品川区の場合も二三区の場合も、ほぼ同様のカーブを示している。三十年代末において、品川区内では一〇世帯のうち、六~七世帯にテレビが普及していたこととなる。
テレビがいまだ各家庭に行きわたらない時代には、区内の駅前広場やさかり場に据えつけられた街頭テレビに多くの人が集まった。とくに、プロレスや野球中継が人気番組として歓迎され、そのときにはテレビのある喫茶店やそば屋も満員となった。