次に歳出における変化をみると、同じ十五年間に九億円から一一一億円へ、約十二倍に膨脹したが、そのなかでも、品川区財政の、戦時下の一時期を除いて、つねに中心であった教育費が、やはり一ばん伸びている。これは品川区における教育が、それだけ発展したことを端的に物語るものである。
とくにベビーブーム期に生れた生徒たちが、中学校入学時に当る昭和三十五年度は教育費がいっそういちじるしくふえた。
教育費の次に大きく伸びたのが民生費である。三十二年度にわずか五〇〇万円余りだった民生費が、二九億六五〇〇万円と実に五百五十五倍という驚異的な伸びを示している。これは、昭和三十六年四月保育所、昭和四十年四月福祉事務所、保健所、優生保護相談所などが都から区へと移管されたことが原因している。これもまた、歳出面からの区財政規模膨脹の一要因をなしたわけである。高度経済成長にともなう東京都への人口集中、経済の集中から東京都がマンモス化してくるにつれて、なるべく区に事務事業を移管して、少しでも複雑な都行政を簡素にしたいという方針と、区側の区民の日常生活に密接な行政はなるべく区へ渡せという要求にも答えて、これらの民生関係の仕事が区へ移管されたのである。永年の懸案だった事務事業が都から区への移管とともに、都と区の財政を調整する制度が、かなり改善された。すなわち、こういった区の行政機能の拡大にともなって、区の財源を明確に保障し、区の自主的財政運営を確保する措置として、昭和三十九年地方自治法が改正されたのである。たとえば、これまでの都条例による特別区税という方式を改め、地方税法第七三六条を改正して、特別区税として(1)特別区民税、(2)軽自動車税、(3)特別区たばこ消費税、(4)電気ガス税、(5)鉱産税、(6)木材引取税、(7)水利地益税、(8)共同施設税、(9)国民健康保険税の九税目が法律で定められた。
また、このとき都民税法人分と固定資産税の一定割合(「都と特別区および特別区相互間の財政調整に関する条例」第三条できめる、昭和四十年度は都の固定資産税と都民税の合計の二五%)を本来的な財源として、区への交付金にあてる方法が採用され、交付金財源が安定化した(『東京都財政史』下巻七六八ページ)。)。
こういった形で東京都のマンモス化が、一面で区の財政の自主性をかなり改善するとともに、区財政を膨脹させる一要因をなしたのである。たとえば前掲第226表でみたように、特別区交付金が区歳入の伸びの二ばん目の寄与率を示すに至ったのである。土木費もかなり伸びたが、これも、民生費と同じく、延長一、五〇〇メートル以下の都道、普通河川の維持管理が昭和三十六年四月、次いで四十年四月、土地区画整理・市街地改造・防災建築区造成・建築基準行政などが、都から区へ移管されたからでもあった。この土木費の拡大は、区財政のなかで投資的経費が伸びたことを象徴的に示すものでもあった。とくに昭和四十三年完成した総合庁舎建設費の支出は、昭和四十年代初頭の投資的経費をいちじるしくふやす一因となったのである。これによって、当然、人件費の割合が急速に低下していった。