品川区はじめ二三区は市町村に当る地方自治体であるが、東京都との関係において複雑で特殊な地位におかれている。「住民にもっとも近い基礎的な自治体」であり、千代田区をのぞけば数十万人の人口を擁する中都市と同じ規模であるにもかかわらず、制度上区長を区民自身の手で選ぶこともできないし、財政上も自主財源が少なく、自治体としての自治権・自主権を大幅に制限されている。戦後の歴史のなかで、さまざまな要因によって、こういった特別な状況が生じたのであるが、それは東京という巨大都市の行財政を各区ばらばらでなくて統一的に進めなければならないという要請が強く働いたからであろう。しかし、他方では当然住民自治のたてまえからも、これに対して区側の反発が生じてこざるをえない。それが特別区の自治権拡充運動という形で展開されたのである。区側は住民自治の原則である①区長公選制の実現、②財政権の確立、③事務事業の区への移管を主張してきた。
ところで昭和二十二年五月三日、日本国憲法と同じ日に施行された地方自治法によって、東京都はそれまでの特別法である東京都制に基づく都から、府県と同じ性格の普通地方公共団体としての都へと生まれかわった。それと同時に、それまで都の下部機構だった区の性格も大きく変わり、新しく特別区として、市に準ずる地位が与えられた。区長の公選制・課税権・起債権・区会の条例制定権などが認められ、特別区はそれまでの行政区から自治区へと生まれ変わった。これは新憲法の民主主義の基本理念を地方自治に具現した画期的な改革であった。
しかし、地方自治法付則第二条で「東京都制、道府県制・市制及び町村制はこれを廃止する。但し東京都制第百八十九条乃至第百九十一条及び百九十八条の規定は、なおその効力を有する」とされ、他の法律のなかで、市とあるは都とするという特例を存続させたのである。その結果、特別区は普通の市町村と同じように仕事をすることができないという制限を受けることになった。たとえば社会福祉、保健衛生などに関する諸法規のなかに、特例として特別区を除外することが多かった、そのために従来区役所で担当していた社会福祉事務・保健衛生事務などが都に引きあげられたりした。
さらに、税法の上でも特別区の財政自主権はいちじるしく制限された。地方税法第七百三十六条は「特別区は、都の条例の定めるところによって、その区域内において都が課することができる税の全部又は一部を特別区税として課することができる」と規定し、特別区税としての税目を法で定めずに、都の任意に委ねられていた。
こうして特別区は形式的には自治体の資格を得たが、実質的には課税権や条例制定権をもたぬと同じような制約のもとに発足したのである。だから二三区の自治権拡充の運動は、地方自治法施行と同時にはじまったのである。
昭和二十六年から七年にかけて都区の対立は全面的ともいえる状態になった。区長公選制を廃止して、任命制に切換える昭和二十七年八月の地方自治法改正をめぐっての攻防だった。区側の敗北に終わったが、特別区を完全に行政区にしてしまおうとする政府側・都側の意図は実現しなかったなどの譲歩を区側としては確保したといえる。
区側の一歩後退から、自治権回復運動といえるのが、それ以降の特徴となった。