都の身軽論

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特別区側の自治権拡充・回復の要求が続けられていったなかで、昭和三十四年四月東京都知事改選が行なわれた。立候補した東龍太郎は、選挙向けのパンフレット「新しい東京」で、現行特別区制度の欠陥を指摘し、特別区側の要請している区長公選、事務事業の移譲、財政権確立の実現に努力する意向を明らかにした。安井都政から東都政への転換とともに、都は都区問題の解決に従来より、かなり積極的理解を示すようになっていった。

 この変化は東知事の考え方にも影響したであろうけれども、その背景になったのは、東京都の過度集中・過密化・マンモス化による過大都市東京の矛盾の激化だった。住宅難・交通難・ごみ処理・上下水道・公害などが累積して都の仕事はふくれ上がる一方だった。それでなくても都は、府県の事務と二三区の地域では市の事務に当る部分もあわせて行なっていたから、人口の膨脹・経済発展にともなう都行財政のマンモス化・複雑化はすでに限界状況に達していた。この都行政のゆきづまりを打開するために、住民に身近な行政はできるだけ特別区に移譲すべきであるという主張、「都の身軽論」がでてきた(東京都政調査会『特別区の行政と政治』一七五頁。)。しかもその上に東京オリムピック開催のための事業をかかえるに至って、過大都市の悩みがいっそう深刻になったためとあいまって、都の側から区に事務事業を移譲する方向がとられた。都区間の雪どけが進み、昭和三十五年十二月には都と区が対等で都区間の重要問題について連絡協議する「都区連絡懇談会」、都区財政調整について協議する「都区財政協議会」がもうけられた。翌三十六年保育園・普通河川・延長千五百メートル以下の都道が、区に移管された。


第205図 もとの品川区役所前通過の東京オリンピック聖火ランナー
(昭和39年10月8日)