都の身軽論は、やがて昭和三十九年七月公布の地方自治法の一部改正となって一つの実を結んだ。①都を身軽にすること、そのためにも②特別区の自主性を強化すること、③都と特別区、特別区相互間の協力関係を緊密にすることに改正のねらいがあった。
たとえば特別区の財政自主権において、市町村民税個人分、電気ガス税・たばこ消費税などが特別区税として新しく地方税法に明記され、それまでと比較してかなり大きな改善をみた。事務事業の面でも福祉・保健などが都から区へ移管された。
区財政は昭和四十年度から、先にみたとおり、必然的に膨脹していった。それにともなって区の行財政はようやく一定の自主性と計画性をもつようになった。それまで、区は計画をもとうとしても自主財源もないし、事務事業の主体性もないのだから、計画のたてようもなかった。ところが、昭和四十年度あたりから、五ヵ年計画などのやや長期にわたる見透しをもって財政を運営することが一定程度できるようになった。区の事業が、同じ人口規模の市にくらべれば、まだまだ比較できないが、区庁舎の建設や公会堂などのある程度大きな事業が行なわれるようにもなった。
それ以前だと、たとえば教育関係をみても、もともと区の事業であるにもかかわらず財源は都の教育庁の予算から区に交付され、学校の校舎改造、三十年代は主に戦後のバラック造りの老朽校舎を本建築に改造するのが主な仕事だったが、その場合もどの学校からすすめるかということも全く区には発言権が与えられず、もっぱら都の主導権によって行なわれた。都側は、もし区がどの学校を先にやるかを決めると、区内で問題になるだろうからという理由づけで、説明していた。しかし、これはほとんど口実にすぎなかった。区が庁舎を造ろうとすると、「いらないのではないか」、公会堂を新設しようとすると「大きすぎる」などと、区の行政に対する介入はいちじるしいものがあったといわなければならない。四十年度以降、この介入は、かなり改善され、都側が少なくとも紳士的になってきた。
しかしながら、自治権としては理念の上ではもっとも重要ともみられる区長公選制は認められなかった。しかも、事務事業の移管の割には、固有財源を区に対して充分な保証を与えなかった。いっぱん市町村税で、大きな比重を占めている固定資産税や、市町村民税法人分は区へ譲らず、いぜん都税にとどまったのである。
ここで、都区間の関係でもう一つ重要な変化が生じた。それは、たとえば、たばこ消費税が区税になった結果、中央区・千代田区・港区などのようにたばこの売上高が巨額にのぼる地域は、都区財政調整において納付区になり、反対にこれまで納付区だった城南や山手地域の各区も交付区になったことである。すなわち都にとって財政調整納付区が少なくなり、交付区が多くなったのは、都として各区に対するコントロールがしやすくなったことを意味しているからである。やはり、納付区の発言力は大きいし、交付区に対する都の発言力が大きくなるのは、当然だからである。これが、むしろ都側の戦術だったとさえみられる。ともかく一筋縄ではいかない複雑な内容を都区財政調整問題がもっていることを、この側面は物語っているといってよい。
また、同時に反面では財政調整が、かなり事務的にできるようになったのも事実である。複雑な政治的折衝の手間ひまがかなり省かれたのは、大きな改善だったといわれる。
ところで、このような複雑な都区財政調整は、つまるところ、特別区という自治体のかかえている特殊性から生じる問題である。品川区民の生活は東京都という広がりのなかで成り立っている。住所は品川区にあるが勤務先は都心にあるという人も多いし、品川区の工場で働く人のかなりの部分は品川区民ではない。区の自主性・自立性は原則的には正しいし、今後追及されなければならない民主主義のたてまえに違いない。それにもかかわらず、区が市町村と完全に同じような自立性をもったとしても、そこには、自から特別区として、都としての条件を無視できないことも事実であろう。過大・過密都市の都財政が、過大・過密によって地価が上昇し、固定資産税収入がふえるのに依存してきた段階は、ドルショックなどで高度経済成長政策が終止符をうとうとしている現在、根本的な再検討を迫られているといえる。それだけに、都と区の間の違いといったものを、広く考慮にいれた区の自主・自立の方向が摸索されなければならないといえよう。