昭和三十年代にはいると、日本経済は戦後の混乱から脱皮し、企業の設備投資も活発化し、いわゆる神武景気をむかえた。その後、日本経済は小さな景気の変動をくり返しながらも、昭和三十五年以降の所得倍増計画に象徴される高度経済成長へと発展していった。
このような急激な経済成長には、まず産業基盤の整備が不可決であった。なかでも道路網の整備はとくに急がれた。
しかし、わが国の交通は、明治以降鉄道を中心に発展してきたこともあって、道路網の整備は極めて遅れていた。昭和三十一年に建設省の要請で来日したワトキンス道路調査団は「日本の道路は信じ難いほど悪い。工業国にして、これほど完全に道路網を無視した国は日本の他にはない」と批判した。
昭和三十二年の高速自動車国道法の制定と相まって、昭和三十四年には、日本ではじめての本格的な都市内高速道路網の建設を目的とした「首都高速道路公団」が設立された。設立後、公団はそれまで日本道路公団が施行していた都内の工事(現在の高速二号線)を承け継ぎ、ただちに活動を開始した。またそれにひき続いて、高速一号・四号線などの用地買収、工事にも着手した。
いっぽう、昭和三十四年、第十八回オリンピック大会の東京開催が決定されたが、この決定は、近代都市に不可決とされている高遠道路の建設に大きな拍車をかけた。とくに、東京国際空港と都心部を結ぶ高速一号線は、重点的に工事が進められた。