自動車の激しい増加と道路混雑は、交通事故を激増させたことはいうまでもないが、都民の足として活躍してきた都電を廃止へと追いこんだ。
まず、自動車の増加による道路混雑により、都電の速度が低下しはじめた。昭和三十年の平均速度は毎時一四・一キロメートルであったが、それをピークにして三十七年には十二・九キロメートルへと年々低下し続けていった。平均速度の低下は、走行キロの減少となり、また、ダイヤどおりの運行を困難にした。そして、このことが、公共交通機関としてのたいせつな条件である「迅速性」を喪失させ、その喪失が利用者の減少へとつながっていった。
都電は、速い・安い・安全という大衆輸送機関には欠かせない条件を備えていた。道路の混雑していない早朝や日曜日には、品川―新橋間などでは、国電に劣らないスピードで走ったこともあった。
しかし、自動車優先の政策をおし進める政府は、昭和三十四年、路面交通の渋滞に対して姑息な解決策として路面電車の撤去の方針を打ち出した。これをうけて同年十月警視庁は自動車の軌道敷内への乗り入れを認めるようになった。その結果、都電の速度はいっそう低下し、交通機関としての機能が低下し、さらには、経営の悪化をも招くようになっていった。
そのころ、昭和三十四年から三十八年にかけ、路面電車をいかにすべきかをめぐり、東京都交通局などから各種の提言や答申が相次いで出されていた。しかし、モータリゼーションの勢いは強く、結局、都は撤去の方針を打ち出さざるをえなかった(『東京都交通局六十年史』)。
昭和四十一年十二月、都議会で自治省の交通事業財政再建団体の指定申請が可決された。そして翌年七月の都議会で交通事業における赤字財政の再建を目的として、路面電車の全面撤去を計画の中心に据えた交通事業再建計画が可決され、これに基づき、さっそく路面電車の撤去が開始された。
都電を廃止に追い込んだのは自動車であることは否定できない。しかし、いっぽうでは昭和二十七年以来、公営企業である都営交通に適用されている地方公営企業法の存在も見逃がせない。この法は都営交通事業に独立採算制を強く要求している。だが、スビードの低下による生産性の悪化、乗客の減少による収入の低下など、都電をとりまく周囲の状況は独立採算制の維持を困難にしていた。
スピードの低下は一日あたりの車両の走行キロを短縮させ、乗務員の超過勤務・人員増をまねき、生産性の低下をもたらす。結局これはコストの上昇をよび起こす。東京都交通局の計算によれば、かりに昭和三十七年度の時速(一二・九キロ)が二十九年度なみ(戦後の最高一四・一キロ)に回復すれば、三十七年度事業収支不足のうち、路面電車で七五%が解消されることになる(柴田徳衛ほか編(一九六五)『都市問題講座四』一七七ページ)。
第一次撤去計画は昭和四十二年十二月に実施され、三〇・八キロメートルが廃止された。このなかには品川区民と関係の深かった四路線(①品川駅前・上野駅前、③品川駅前・飯田橋、④五反田駅前・銀座二丁目、⑤目黒駅前・永代橋)が含まれており、明治三十六年以来、都民の足として親しまれてきた都電はその姿を消していった。
系統 | 区間 | 昭和39年11月13日 | 昭和42年9月20日 |
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人 | 人 | ||
① | 品川駅前――上野駅前 | 32,417 | 23,860 |
③ | 〃 ――飯田橋 | 20,631 | 13,702 |
④ | 五反田駅前――銀座二丁目 | 19,678 | 13,817 |
⑤ | 目黒駅前――永代橋 | 34,430 | 24,935 |
(鉄道ピクトリアル205号p.9による)
都電の廃止後、代替交通機関としてバスが運行されている。代替バスの系統は234表のとおりで、おおむね都電の路線と同じところを走っている。
都電の系統 | 都電の区間 | バスの系統 | バスの区間 |
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① | 品川駅前――上野駅前 | 501 | 品川車庫前――上野駅前 |
③ | 〃 ――飯田橋 | 503 | 〃 ――四谷見附 |
④ | 五反田駅前――銀座二丁目 | 504 | 五反田駅前――新橋駅前 |
⑤ | 目黒駅前――永代橋 | 505 | 目黒駅――永代橋 |
(「都のお知らせ第150号(昭和42年12月20日)」による)