都営地下鉄の開通と京浜急行電鉄の都心乗り入れ

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地下鉄は昭和二年、浅草・上野間に開通したのがはじまりであるが、本格的に、かつ計画的に建設されるようになったのは昭和三十年以降であろう。

 地下鉄建設にお墨付きを与えたのは、昭和三十年九月に運輸大臣の諮問機関として設置された「都市交通審議会」である。審議会は、同年九月、運輸大臣から「大都市及びその周辺における交通、特に通勤通学時における旅客輸送力の整備増強に関する基本計画」についての諮問をうけ、審議した結果、昭和三十一年八月に第一次答申をまとめた。答申は、「従前の都市計画高速鉄道網についての再検討を求めるとともに、現下の急迫せる交通事情を打開し、一日も早く交通緩和を実現するためには、従来営団のみに任せられていた建設を営団以外の者にも分担せしめ、かつ今後建設する路線は、郊外私鉄とも直通できるよう規格を統一すべきである」という内容であった(『東京都交通局六十年史』)。

 この答申にひき続いてまとめられた第二次答申(営団以外のものに対する免許についての法律的見解)をもとに、関係官庁との折衝が続けられ、昭和三十二年一月十九日、荒木運輸・石破建設両政務次官・吉岡首都圏整備委員会事務局長は覚え書きをかわし、地下鉄工事を都に施行させることを明らかにした。

 結局、人口増加による輸送需要の増加に対処するには、営団だけでは建設がまかないきれないという理由で東京都も地下鉄の建設を開始したわけである。建設区間は、先の第一次答申にもとづき昭和三十二年六月建設大臣から告示された東京都市計画高速鉄道一号線、西馬込~泉岳寺~押上間である。

 都営地下鉄一号線は、西馬込・押上間を本線とし、泉岳寺・品川間を分岐線とする延長一九・五キロメートルの路線で、途中に一八駅が設置されている。本線は東京都が、分岐線は京浜急行電鉄株式会社がそれぞれ建設を担当した。

 工事は昭和三十三年、押上方より開始され、部分開通を重ねながら昭和四十三年六月二十一日には、大門・泉岳寺、泉岳寺・品川間が開通するにいたった。これにより都営地下鉄と京浜急行電鉄の相互直通運転がはじめられ、京浜急行電鉄は「万里の長城」ともいわれた山手線をこえて、明治以来の念願であった都心乗り入れを実現した。そして同年十一月十五日に泉岳寺・西馬込間の開通により全通した。

 都営地下鉄の開通は、東急の独占地域である城南地区の交通にさまざまな影響を与えている。地下鉄の路線は池上線と平行しているため、東京急行電鉄では対抗策として、池上線の電車をスピードアップさせるなどした(全線の所要時間を二五分から三分短縮)。しかし、地下鉄は、乗り換えなしで都心へ直通するため、池上線の乗客の一部が地下鉄へ移行している。

 最後に、建設工事のようすについて若干みることにしよう。地下鉄は既存の市街地の地下を走行するため、工事は困難を極めていることはいうまでもない。一般には路面を掘り下げて行くオープンカット方式が用いられるが、川底を横断するときや、軟弱地質の場合には、さまざまな工法が用いられる。都営一号線の五反田大橋下では凍結工法が、また、泉岳寺・五反田間の丘陵地帯ではシールド工法が採用された。