戦後、東京都の人口は昭和二十九年までは年間五%を越える高い増加率を示していたが、昭和三十年以降になるとその増加率はしだいに下降線をたどるようになった。なかでも都心の千代田・中央区は、昭和三十年以降は人口絶対数さえも減少する傾向をみせはじめるようになる。さらに昭和三十五年以降になると、品川区をはじめ、山手線内およびその周辺部でも人口の減少または停滞の傾向がみられるようになった。都心部の人口減少に対して、その周辺部では対照的に人口増加率が高まりはじめ、いわゆる人口のドーナツ化現象が現われている。また、同時に、都市のスプロール現象も顕著にみられるようになっている。
このような戦後、東京の人口の拡散により、私鉄各線は通勤用鉄道としての性格をいっそう顕著にした。ふえ続ける輸送需要に対して、各私鉄とも戦後の復興期を過ぎた昭和二十年代後半より、車両の増備、施設の拡充に努めた。
東京急行電鉄目蒲線では、電車の編成を昭和二十四年には三両、四十二年四月には四両(目黒・田園調布間折り返しのみ)に増強する一方、また、全線所要時間を昭和三十一年一月には、二七分から二五分へと短縮している。
同池上線でも、昭和三十一年四月に全電車の三両編成化とスピードアップがなされ、全線の所要時間が二七分から二五分へと短縮された。
同田園都市線では、昭和三十二年には荏原町―戸越公園間の立体交差化などによりスピードアップ(大井町―溝の口間が三〇分から二八分に)がなされたほか、この時から三両編成運転が開始された。さらに昭和三十九年七月には全電車の四両編成化が完了している。
このような目につく輸送力の増強化のかげでは、施設の改良が行なわれていることも見おとせない。三七キロレールを五〇キロレールへと交換する軌道強化、電車線電圧を六〇〇ボルトから一、五〇〇ボルトへ昇圧する工事などが第235表のように各線で実施された(『東京急行電鉄五十年史』)。
昇圧(600→1,500V) | 軌道強化(37kg→50kgレール) | |
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目蒲線 | 昭和30年11月 | 昭和40年1月完成 |
池上線 | 32 8 | 42 3 |
田園都市線 | 33 1 | 41 10 |
「東京急行電鉄50年史」
京浜急行電鉄でも同様に、各種の輸送力増強がなされている。昭和三十一年には北品川―品川間の八ッ山橋付近の専用軌道化が完成、また三十三年には電車の最高速度を毎時一〇〇キロメートルに上昇させ、所要時間の短縮をはかった。さらに昭和四十二年には、鮫洲駅などの待避設備の完成(昭和四十一年)などにより最高速度を一〇五キロメートルと、私鉄の最高水準にまで上昇させている。また、電車の編成も昭和三十二年には四両(朝の特急・急行のみ)、三十七年には八両と急速に長大化されている。しかし、会社が三浦半島の開発に重点をおき、東京・横浜対三浦半島間の輸送を中心としているため、ダイヤを変更するたびに、品川区内の各駅を通過する列車がふえる傾向にある。
国鉄山手・京浜東北線では、すでに昭和二十五年には八両編成化されていたが、十両編成化されるのはかなり後のことで、京浜東北線が昭和四十一年四月、山手線が四十三年十月である。その間は運転間隔の短縮(昭和三十一年十一月、田町―田端間で山手・京浜東北両線の分離運転に伴う短縮。三分四〇秒から二分四〇秒へ。昭和三十六年十月には二分三〇秒へ、三十七年十一月には京浜東北線のみ二分二〇秒へ)と車両の大型化できりぬけてきた訳である(『日本国有鉄道監査報告書』)。
しかし、このような編成の長大化や運転間隔の縮小などによる輸送力の増強も、ふえ続ける輸送需要には追いつかず、朝の通勤・通学時のラッシュアワーの車内の混雑はいちじるしく、身動きが困難といわれる状態が続いている。品川区内を通る各線のなかでは、とくに山手線の混雑がいちじるしく、昭和三十年には、定員の二・九倍という混雑を示した(第236表)。
鉄道線名 | 昭和30年 | 35年 | 40年 | 42年 | 45年 | 47年 |
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山手線(大崎→品川) | 298 | 283 | 268 | 273 | 217 | 226 |
京浜東北線(大井町→品川) | 298 | 269 | 274 | 243 | 209 | 233 |
目蒲線(不動前→目黒) | 223 | 251 | 206 | 203 | 177 | 171 |
池上線(大崎広小路→五反田) | 228 | 269 | 230 | 215 | 177 | 180 |
昭和47年3月「都市交通年報」による。 | (単位 %) |
だが、昭和四十年代に入ると、輸送力増強の成果ももちろんあろうが、皮肉にも東京の中心部の人口が減少しはじめたこともあって目蒲線・池上線などでは混雑が緩和されはじめている。朝の最混雑時一時間の混雑度(乗車効率)は、目蒲線では昭和三十五年の二五一%から昭和四十二年には二〇三%へと低下した。また、田園都市線では、溝の口―長津田間など新線開通があったものの、東横線と営団地下鉄日比谷線が相互乗り入を開始していたため、新線区間から都心へ向う通勤客の多くは、自由が丘で東横線へ乗り換えるため、自由が丘―大井町間の混雑には、あまり影響を及ぼしていない。そして、目蒲・池上両線と同様、沿線人口の停滞、減少によって朝の混雑度は低下傾向にある。
いっぽう、山手線も地下鉄が相次いで開通したこともあって、ラッシュ時の混雑度は低下しつつある。