新「品川電車区」の誕生

977 ~ 977

国鉄山手線の電車は、品川・池袋の両電車区に収容されていたが、戦後、相つぐ車両の増備により、昭和四十二年には、両電車区の収容能力を倍も上まわるようになっていた。また、昭和四十三年十月からは山手線の十両編成運転の開始が予定され、さらに車両の増加が見込まれていた。

 しかし、都心部を通る山手線沿線には、電車区を作るに適当な用地がなく、思案投首の折、たまたま、国鉄大井工場の近代化工事により用地の一部が浮いたためその土地を利用することが決定した。だが、その用地でもなおかつ収容をみたすには不十分であるため、用地を立体的に使用して、二階建の電車区を建設することになった。

 昭和三十九年八月に着工以来、約八〇億円の工事費をもって昭和四十三年に完成し、全面的に使用を開始した。収容能力は四九〇両である。

 電車区への電車の出入りは、大崎駅を通して行なわれるため、電車区の完成にともなって、山手線電車の一部に、大崎駅始発と終着の電車がみられるようになっている(鳥取彰(一九六七)「大崎電車区の概要」鉄道ピクトリアル 一九六号 三四~三五ページ))。