モノレールの開通

978 ~ 980

東京モノレール(モノレール浜松町―羽田空港間、一三・二キロメートル)の建設は、昭和三十四年八月に創立された日本高架電鉄にはじまる。この日本高架電鉄(昭和三十九年五月に東京モノレール(株)と社名変更)は、日立製作所をはじめとする日立グループのバックアップのもとに設立されたものである。したがって、東京モノレールは、日立製作所が提携した西ドイツALWEG社の跨座式モノレールの「展示路線」的意義をもって建設された。また、同時に、モノレールが新しい都市交通機関となるか否かのテストケースとしても、注目されいてた。

 昭和三十八年、軌条の工事に着手し、オリンピックを考慮して突貫工事のもとに昭和三十九年九月十七日に開業した。


第207図 大井競馬場駅付近を走るモノレール

 しかし、開業当初は、ジャーナリズムによる大々的な報道などにもかかわらず、乗客は、当初の予想を大きく下まわり、赤字を生じ、経営不振が続いた。その原因は、割り高運賃にあった。確かに、都市交通機関としてみれば高い(注)ことは否定できず、観光施設にすぎなかったともいえる。

 注 片道二五〇円、キロ当りの運賃は一九円となる。昭和四十一年の国鉄運賃はキロ当り三・六五円であった。

 会社は、新しい交通需要を求めて、大井競馬の客をねらって、大井競馬場駅(昭和四十年五月)を開業させた。また、実用路線への脱皮をはかるため、物価上昇の世に逆行して、昭和四十一年十一月、四〇%という大幅な値下げを実施した(二五〇→一五〇円)。

 翌昭和四十二年には日立製作所のテコ入れのもとに日立運輸、西部日立運輸と合併し、日立運輸東京モノレール株式会社が設立され、同時に大幅な経営合理化がなされた。

 このころから、首都高速道路一号線の路面渋滞がいちじるしくなってきたことや、先の運賃値下げなどが功を奏して、航空機利用者を大幅に獲得したほか、空港従業員の通勤にも使われはじめたことにより、乗客は大幅に増加しはじめ、都市交通機関へと転向しつつある(今城光英(一九七〇年)「東京モノレールの五年」鉄道ピクトリアル 二三六号 三八~四一ページ)。

第237表 東京モノレールの輸送人員
年次 定期客 定期外客
(千人) (千人) (千人)
昭和39年 2,474 2,474
40 22 2,721 2,743
41 354 2,958 3,312
42 1,734 4,704 6,438
43 5,380 2,779 8,159
44 7,589 3,759 11,348
45 10,017 5,140 15,157
46 11,240 5,662 16,902

(『東京都統計年鑑』各年による)