京浜運河その他の補償問題

982 ~ 985

東京湾の漁民たちと東京湾の発展は、いつも背中あわせの関係である。日本経済の発展とともに、港湾としての東京湾への期待が大きくなり、それに付随した港湾施設や埋立が進行すれば、必ず漁民の生活は脅やかされる。このような関係は、決して新しくできあがったものではない。品川の漁民を含めた内湾漁業者には、生活権を守るための漁業補償の要求や、そのための苦闘の歴史がすでにあった。

 昭和になってからだけをみても、昭和三年六月二十二日には、大森の海苔漁業者鳴島音松(なるしまおとまつ)(当時二十六歳)による京浜運河開さく阻止のための天皇への直訴というショッキングな事件があった。その背後には、品川・大井・大森・入新井・羽田・大師等の漁業者および関係海苔業者約二万世帯、一〇万人の生活擁護のための猛烈な京浜運河開さく反対の運動があったことはいうまでもない。

 直訴事件によっていったん中止の形となっていた京浜運河開さくの計画は、昭和十年再びよみがえった。しかし、前回漁民の反対が激烈であっただけに、東京府会では漁業権の補償と漁業者の保護救済を慎重にとりあげ、東京府補償委員会を設置し(十二年十二月)、この委員会において決定した漁業補償基準にもとづいて、埋立に対する漁業者の同意をえる協議が進められた。

 現在の品川区域の漁民は、京浜運河第一期工事区域(品川区鮫洲沖から大田区森ケ崎沖までの区域)に含まれ、関係漁業組合は品川猟師町漁業組合・大井町漁業組合・南品川漁業組合であった。これらの組合はそれぞれ代表を送って府との協議をかさねた。協議の過程において、大森町漁業組合は、その漁場価値が他より高いとして、補償に等級をつけることを主張したのに対し、品川関係の組合は、漁場の等級の撤廃を主張した。

 昭和十三年四月十四日の協議会で、組合側も補償問題に関して大体の了解点に達し、同月二十八日付で、品川関係の前記三組合は、埋立に関する同意書を提出した。大森組合の同意書提出は翌十四年一月まで遅延した。この同意書の提出によって交わされた協定書の第一条により、工事区域における漁業権は消滅したこととなった。ただしこの点は、後に大井埠頭建設をめぐる補償要求で再び問題となるところである。

 補償額ならびに救済額の算定については、なお若干の時日を要し、補償金の交付は、昭和十四年六月からはじめられ、第二期工事関係分を含めて、最終的には十八年三月末までかかった。決定をみた補償金の各組合別の金額は別表(第238表)のとおりである。

第238表 組合別補償金
組合名 補償金 計(円)
漁業補償額 救済額
大井 238,944.31 60,403.37 299,347.68
入新井 85,454.75 1,535.92 86,990.67
品川猟師町 165,236,52 60,191.30 225,427.82
南品川 66,228.85 15,540.49 81,769.34
金杉浦 13,200.26 13,333.26 26,533.52
芝浦 13,804.12 13,804.12
大森 2,455,186.89 972,450.45 3,427,637.34
港町 6,037.12 6,037.12
糀谷浦 321,636.36 60,853.38 382,489.74
羽田浦 505,816.31 409,431.35 915,247.66
深川浦 20,278.00 20,278.00
佃島 8,318.00 8,318.00
築地浦 3,900.00 3,900.00
3,851,704.35 1,646,076.76 5,497,781.01

 

 工事は、十四年四月一日から着手されたが、その後日華事変の勃発、太平洋戦争への突入によって、労働力の調達も資材の供給も困難となり、工事は停滞しがちであった。その結果、ついに十八年三月末で工事は打切りとなった。工事の進捗は、第一期工事のようやく半分に達するか達しないかであった。

 太平洋戦争後問題となった漁業補償に、米軍の防潜網をめぐる事件があった。これは、戦後日本に駐留した米海軍が、昭和二十五年ごろから東京湾に防潜網を張りめぐらしたことが、その発端であった。千葉・神奈川・東京の一都二県の漁業関係者約二万八〇〇〇名は防潜網とそれに関連した水中工作物が、魚道を遮断して回遊魚の湾奥部への進入を妨げ、また漁業操業上にも少なからぬ制限を受けることを主張して、その即時撤去を要請した。しかし、日米安保条約のもとでは、駐留軍の施設である防潜網をただちに撤去させることは困難であったので、問題は途中から補償要求に切り換えられた。この防潜網は、昭和三十年四月十九日に撤去を完了したが、それまで別表(第239表)のような補償額が支給された。

第239表 防潜網事件・組合別補償額
組合名 昭和28年度 (自28.1.1
至28.12.31)
昭和29年度 (自29.1.1
至28.12.31)
昭和30年度 (自30.1.1
至30.4.18)
対象人員 補償額 対象人員 補償額 対象人員 補償額
羽田浦 456 748,212 404 867,075 235 944,615
都南羽田 55 99,684 69 430,262 47 54,042
糀谷浦 53 294,756 69 442,105 68 115,417
大森 182 714,494 260 506,477 245 580,676
品川浦 200 818,659 200 469,375 150 465,098
品川東部 56 177,123 55 379,266 41 92,586
58 248,307 58 354,396 43 108,592
30 112,817 30 165,261 27 66,485
中央 47 211,003 74 344,312 70 100,490
(隅田) (108,285)
佃島 24 133,580 30 265,471 24 77,746
深川浦 94 234,681 107 718,143 67 106,246
城東 101 363,752 101 647,154 85 165,331
葛西浦 162 789,684 236 1,523,104 211 426,792
荒川 103 187,150 103 449,218 31 42,489
1,651 6,242,193 1,796 12,071,619 1,344 3,346,605

 

 昭和二十九年三月五日の東京ガス大森工場の重油流出による海苔漁場被害事件は、特定の個別企業との間に起こった漁業補償問題として注目すべきものであった。流出した重油は、湾内の海苔柵数の約六〇%をおおい、とくに全柵数の二六%は、甚大な被害を受けた。東京ガスと各漁業協同組合との間で交渉が進められた結果、東京ガスは総額一、五八五万円の補償金を出した。そのうち、品川および品川東部の漁協は、芝・港・中央・佃島・隅田川の各組合とともに、一八五万円を補償金として受け取った。なお大森漁協は一、一〇〇万円、糀谷ほか二組合で三〇〇万円を受け取った。