戦後、東京港の復興をめざして東京湾修築五ヵ年計画が実施され、品川埠頭用地の造成工事が、昭和二十六年三月からはじめられた。約四〇億円を要して三十九年完成をみた七八万平方メートルのこの埠頭は、外貿埠頭・内貿埠頭・コンテナ埠頭によって構成された、湾内諸埠頭のなかでも最も利用度の高いものである。品川区では、この埠頭は品川浦が発展したものとして、品川区への所属を主張してきたが、四十二年に至って、そのほぼ半分ずつが港区と品川区とに帰属することが決定された。なお、三十三年同埠頭の一部約一万四〇〇〇平方メートル余の埋立権が、東京電力株式会社に移譲された。ここに三十六年十二月、同社の火力発電所が完成した。
このような埋立工事から付近の海苔養殖が蒙る打撃は大きい。品川浦漁協の場合についてみると、昭和三十年度の海苔生産は約九、五〇〇万枚であったのが、三十三年度は約六二〇万枚と急激な下降線をたどった。しかも、組合員の九割が海苔養殖で生計をたてていることを考えると、いっそうその窮状が理解される。品川区の場合、区からの助成はきわめて少ない。大田区の助成金が三〇〇万円におよぶのに対して、品川区の二組合への助成金はわずか七万円にすぎなかったのである。
東京湾のように、海面の利用について、漁業の継続と港湾としての機能確保とが両立しがたくなっている場合、衰退する漁業への助成よりもむしろ、漁業補償の問題が前面におし出される。事実、昭和三十年代にはいると、各種港湾施設事業には、必ず漁業補償の問題が付随した。その第一号は、三十三年度から三十七年度にかけておこなわれた第三台場南面貯木場造成工事であった。それに関しては、三十二年八月から三十三年二月まで補償交渉がおこなわれ、七六〇万円の補償金が品川浦漁協以下一三組合に支払われた。また、晴海埠頭埋立工事および第一一号地埋立工事についても、三十三年五月以降約一年間の交渉を経て、前者は六五〇万円、後者については三、八〇〇万円の補償金が支出され、それぞれの区域に設定されていた各種漁業権が放棄された。
このように、埋立と補償が切っても切れない関係になってくると、補償問題が未解決では、埋立を進めることは困難とならざるをえない。昭和三十四年の夏ごろの状況について、先にあげた『東京新聞』の記事は、次のように報じている。
漁民との補償が決まらず埋立が中断したのは大井埠頭。三百三十万平方メートルのうち、現在六十六万平方メートルだけ埋立てたまま品川浦や大森組合の抵抗にあって中止している。このあたりは大森浦組合のノリ養殖場。埋立の土が流れぬように七百メートルの石がきを都では作ったが、この石がきのため潮が流れず、ノリはできないと漁民たちは大挙して都へ押しかけた。都では大井埠頭については戦前の昭和十三年ごろ地元の漁業組合と補償がまとまり埋立権を取っているから継続事業だと主張しているが、漁民たちは新しい漁業法(二十六年施行)で、漁業権が生まれたと、都の埋立に猛反対している
大井埠頭埋立地の一部は先に述べた京浜運河建設工事区域であったため補償に関し複雑な問題が生じたのである。