漁業権の全面的放棄

987 ~ 990

高度経済成長が、首都圏の社会経済的発展を促進するにつれて、東京港の拡張・整備の必要は焦眉の急とされた。その結果、在来の計画を遙かにうわまわる東京港改訂港湾計画(昭和三十六年~四十五年)が立案されるに至った。このような計画のもとでは、埋立地の造成は内湾漁場全域におよぶ規模となるために、従来のような局地的漁業補償では問題は解決せず、内湾全漁業者との間で、漁業権を全面的に放棄する全面漁業補償協定を結ぶことの必要が生じた。

 このようにして、昭和三十四年十月に東京都内湾漁業対策審議会が設置され、翌三十五年十二月に臨時内湾漁業対策本部が設けられた。同年十二月審議会は、(1)都・国の発展のため都が目下企画中の事業を優先させることが妥当、(2)漁業者が受ける損失に対しては、公正・妥当な補償、その他あたたかい配慮が必要などの答申を都知事(東龍太郎)に出した。この答申の主旨にそって、補償対策・転業対策をたてるほか、残存水域における漁業の実施方針を定め、補償的措置をとることが決定された。さらに三十六年九月には、東京都と漁業者側との補償交渉機関として、「内湾漁業対策協議会」が設置され、もっぱら問題の解決をはかることとなった。

 このような経過をへて、補償問題が全面的に協議されるに至った背景には、漁民たちによる強い補償要求の動きが、すでに早くからあった。たとえば、昭和三十三年六月十日に、本州製紙の工場排水のため大量の魚貝類が死滅した本州製紙事件が起こった。この事件を契機として、同年六月二十七日、日比谷公会堂で「東京都漁民大会」(参加者 約三〇〇〇人)が開かれ、「水質汚濁防止と合理的な漁業対策の実現」を政府および都に強く要求する宣言と決議文がつくられた。また、大井埠頭埋立工事や土捨場に関して、漁民は実力行使をもって都に抗議した。とくに大井埠頭をめぐる都港湾局との折衝には、大森漁協とともに品川浦漁協があたることとなり、同漁協の組合長高石秀行は、前記の東京都内湾漁業対策審議会の委員のひとりとなった。

 昭和三十六年六月十七日、品川浦漁協と品川東部漁協を含む中部七ヵ浦組合は、都との間に、次のような補償契約と都有地譲渡に関する契約をとり結んだ。それは、大井埠頭埋立についての都からの補償金七九二万五〇〇〇円をもって、漁民側は、品川区大井鮫洲町二〇九番一号ほか五筆の土地を、都から譲渡を受けたことを意味する。それは、大森漁協の場合とは違い、右七ヵ浦の場合は、土砂を直接漁場に投下され、海面が陸地に変じたことが、補償の原因となったことにもとづくものであった。ただしこの補償は、大井埠頭埋立に関して過去において蒙った被害に対するものにほかならない。

 大井埠頭に関する補償には、古く京浜運河開さくの際にまでさかのぼる複雑な問題が介在したが、品川については、右のように一応の解決をみた。従ってそれ以後は、いよいよ漁業権の全面的放棄を関する交渉がはじめられた。都では各漁協から選ばれた代表者との間に折衝をかさね、三十七年三月には総額二七〇億円の補償金額を提示した。

 これに対して漁業者側からは、一、二九〇億円という対案が出された(五月二日)。その後、漁業者側の要求額は七九〇億円に縮減され(六月五日)、三十七年八月に至って、都側は補償額三一五億円を示したが、漁業者側からは、三六〇億円の対案が発表された。

 以上のような経緯をへて、三十七年十二月三日、都議会議長の斡旋により補償額三三〇億円で漁業補償協定が成立し、調印式がおこなわれた。当時の『朝日新聞』は、「消えゆくノリ舟」という見出しで次のように報道している。

 

 東京内湾の埋立てにからむ漁業補償問題は三日都と関係漁協組と妥結の協定書がとりかわされた。これまで東京の名産〝浅草ノリ〟をはじめスダテ・釣船・貝とりは姿を消すことになる。地元の各漁協組も、三十日以内に漁業権放棄にともなう廃業手続を終える。同組合では現在張ってあるノリ網を都の埋立工事の進行に沿って指定する期間内にそれぞれ引払わなければならない。(昭和三十七年十二月四日)

 

 当時、品川浦漁協は、高石秀行ほか一三七名の組合員をもち、品川東部漁協は、堀江三吉ほか四一名の組合員を擁していた。これら二組合の受ける補償額は、別表(第240表)の示すとおりである。これらの補償金は、各漁協組で配分委員会をつくり、組合員個々の業態や実績を検討したうえ、数段階に分かれた配分額を決定した。これらの漁協が、補償金の配分を終えて解散したのは、昭和三十九年度であるが、三十七年の暮れから翌年にかけての時期に、両漁協のもっていた漁業権が放棄され、長い歴史をもつ品川の漁業は、ここに終焉をつげることになったのである。

 第240表 補償金内訳表
事項 漁業収益補償その他 組合員の所有する漁業経営上の諸設備で不要となるものの価値低下分 漁業権に伴う漁業以外の収益(潮干狩) 養殖中の魚介類で採取不能のためにうける損失 組合の所有する諸設備で不要となるものの価値低下分 組合職員に対する退職金引当金 組合員が常時雇用する漁業従事者に対する離職給付金引当金 組合の補償用事務費 合計
都南羽田漁協 1,894,726,570 36,295,630 492,613 2,981,824 7,047,200 815,160 1,942,358,997
第三羽田漁協 393,577,785 13,840,215 74,467 1,348,683 2,640,400 272,400 411,753,950
糀谷浦漁協 2,305,045,153 31,928,717 618,893 606,837 825,084 3,529,540 6,280,400 982,800 2,349,817,424
大森漁協 10,834,903,959 223,489,180 1,534,375 1,504,486 2,503,699 19,198,459 15,240,200 1,948,440 11,100,322,798
品川浦漁協 1,352,143,413 22,395,534 425,168 416,885 299,431 4,332,159 6,713,020 536,640 1,387,262,250
品川東部漁協 240,655,638 5,138,058 109,721 107,583 435,303 1,095,921 1,976,200 248,640 249,767,064
芝漁協 336,429,195 5,417,897 108,006 105,902 579,002 1,571,815 4,589,400 281,640 349,082,857
港漁協 141,858,050 4,085,996 54,003 52,951 70,822 678,191 1,877,000 238,080 148,915,093
金芝漁協 107,319,155 2,334,891 54,003 52,951 276,318 216,960 110,254,278
羽田浦漁協 2,419,633,533 37,784,673 2,374,424 2,328,170 276,373 1,011,126 16,338,300 862,680 2,480,609,279
佃島漁協 238,524,307 2,782,785 108,006 105,902 43,604 1,855,003 853,360 243,360 244,516,327
中央隅田漁協 372,105,611 11,747,585 109,721 107,583 1,476,502 6,390,640 325,200 392,262,842
深川浦漁協 895,149,063 16,564,849 1,524,089 1,494,399 597,379 2,387,538 26,345,300 374,040 944,436,657
城東漁協 914,220,837 19,032,903 1,534,375 1,504,485 1,146,045 1,368,486 1,190,400 449,280 940,446,811
荒川漁協 389,874,662 11,080,072 49,717 48,749 46,451 762,161 435,000 424,000 402,721,022
葛西浦漁協 9,306,128,777 118,170,862 8,539,356 8,373,005 3,405,236 8,364,554 6,287,800 2,182,080 9,462,051,670
深川浦東部漁協 58,608,353 1,977,519 160,687 248,640 60,995,199
漁業協同組合連合会 3,065,760 7,820,566 3,000,000 13,886,326
信用漁協連合会 8,539,166 8,539,166
32,200,904,061 564,067,366 17,143,857 16,809,888 13,861,269 69,358,699 104,204,620 13,650,240 33,000,000,000

〔註〕 漁業協同組合連合会,信用漁協連合会については,「補償金」を「見舞金」,「組合」を「連合会」とよみかえる。
〔註〕 羽田浦,佃島,中央隅田,深川浦,各漁協の漁業収益補償には,河川の区域における過去の漁業上の損失を含む。
城東,荒川,葛西浦の各漁協の漁業収益補償には,治水,高潮対策事業による漁業上の損失及び河川の区域における過去の漁業上の損失を含む。