昭和三十七年二月、東京都の常住人口は一、〇〇〇万をこえた。世界最初の一千万都市の出現である。このような巨大都市には、従来の大都市にはみられなかったようなさまざまな現象が発生する。東京都の一部を構成する品川区にも、巨大都市特有の現象にともなうさまざまな変化が起こる。ここ約一〇年間の品川区の現状は、このような激しい変化を抜きにしては語ることができない。
区民生活の周囲に起こるさまざまな変化のなかで、直接区民の眼にうつるのは、町の景観の移り変わりである。たとえば、第一京浜国道が国鉄東海道線と立体交差する八ッ山橋は、長い間都心からの品川区への主要な入口のひとつであった。昭和五年七月に拡築工事が完成して以来、この鉄の陸橋は、たんに交通上の要衝としてだけでなしに、品川の象徴としても親しまれてきた。しかし、歩道を除くとわずか一九・一メートルの幅しかなく、しかもその車道を三等分して二本の鉄柱が立っているこの陸橋は、一時間平均五、〇〇〇台に近い頻繁な車輛の交通によって、第一京浜国道随一の交通上の難所となり、品川を象徴する名所どころか、交通事故の名所となってきた。
このような事情から、昭和三十七年、第一京浜国道が八ッ山橋をさけて東海道線と立体交差し、また従来平面交差で事故の多かった明治通りとも、立体交差する新しいふたつの陸橋と新道路の建設が計画され、翌三十八年に完成をみた。(資五〇〇〇・五〇一号)
この結果、八ッ山橋付近の景観はいちじるしく変わった。都心方面から来ると、八ッ山橋の品川駅寄りのたもとで、五反田方面への明治通り下り線は地下にもぐり、その上を新設の御殿山橋によって第一京浜国道上下線が通り、それはさらに新八ッ山橋で東海道線と立体交差する。明治通り上り線は、西側の台地を削りとって都心にむかっている。品川区の玄関口のひとつは、このように立体的な変化を見せている。
品川区のいまひとつの玄関口ともいえる国電五反田駅周辺も、急激に変わった景観の代表的なものである。駅周辺の区画整理は、戦後の復興計画として着手され、昭和三十五年のころから、積極的な都市改造計画が展開された。それに関連した顕著な点として、駅北側から国電山の手線下をくぐりぬけ、環状六号線と交差して第二京浜国道と中原街道の分岐点に至る幅三五メートルの放射一号線が完成した(昭和三十六年)。さらに駅の南側には、幅二〇メートル、長さ一〇〇メートル、面積二、〇二七平方メートルの道路を兼ねた広場ができ、駅北側には幅五〇メートル、長さ一〇〇メートル、面積二、六八七平方メートルの広場が完成、その上をまたいで横断歩道橋が三十九年九月十日竣工した。昭和四十二年十二月九日には、駅前を起点としていた都電銀座線も廃止された。地下では、都営一号線の地下鉄工事が、四十三年に完成した。これらの都市改造の進行につれて、駅付近の建物の高層化も進んで、駅周辺の景観はまったく一変してしまった。
同様のことは、駅の上にふたつのショッピング=センター=ビルが建てられて、その姿が一変した国電目黒駅周辺についても、また大井町駅前についても指摘できる(資五〇五号)。東京の巨大化につれて、交通上の必要から、また都市改造の上から、さまざまな建設が進められ、そのことから町の姿は急激に変えられたのである。
たまたま昭和三十九年十月に、東京でオリンピックが開催されたことは、道路をはじめとする都市改造をいっそう急速におし進めたともいえよう。四十二年完成の高速二号線が中原街道と交差する西五反田七丁目の地点などは、付近の光景をまったく一変させた場所である。またとくに品川区に関しては、三十九年十月一日開通の東海道新幹線が区内を通過したし、羽田空港と都心を結ぶ首都高速一号線や、モノレールも区内を通ることとなった。これらの新しい交通機関や高速道路は、品川区内の景観に、従来見られなかったきわめて現代的な景観をつけ加えた。とくにモノレールと高速一号線が平行して走る東品川付近の景観は、現代東京の新名所ともいえるものである。しかしながら、以上のような品川区内での外観上の変化は、現代品川の新風物詩としてこれを楽観的に眺めていてよいものであろうか。そこには、眼に見えぬ形での激しい社会的変化と、それをめぐる問題がかくされているのである。