品川の公害

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品川区の住民の多くは、その住宅地の環境についてなにがしかの不満を抱いている。区人口の最近における年々の減少はこのことを証明している。調査年度はかなりさかのぼるが、昭和四十年七月、二八七人の品川地区住民についておこなった住宅地に対する満足度の調査では、過半数のものが程度の差こそあれ、何らかの不満をもっていることが明らかになった。その調査における質問と、それへの答えは次の通りである。

 質問 現在住んでいる場所にこれから先、ずっと住むつもりですか。

 回答

  (イ) 住みよいからずっと住むつもりである。(35%)

  (ロ) 不満な点は改善してずっと住むつもりである。(19%)

  (ハ) 他に移りたいがやむなく住んでいる。(20%)

  (ニ) もっとよい所に移るよう準備している。(17%)

  (ホ) 今すぐにも引っ越したい。(2%)

  (ヘ) その他。(4%)

  (ト) わからない。(3%)

 これらの不満の原因として、個々の住宅事情や周囲の過密的状況などがあげられるけれども、当時区民の生活をむしばみはじめていたさまざまな都市公害がかなりの比重を占めていた。そのころの新聞をみても、区内交通量の増大と、それにともなう事故の多発・排気ガス・騒音をめぐる問題をはじめ、五反田駅周辺の地盤沈下(資四七七号)、鈴ケ森中学の騒音(資四八四号)、目黒川の悪臭、新幹線工事の被害等々の公害関係記事がめだってくる。とくに、昭和三十九年七月十四日夜の「宝組」勝島倉庫の連続大爆発は、一九名もの消防官の殉職者を出した災害事件としてだけでなしに、危険物の野積みによる化学爆発として区民に大きな恐怖を与えた。これを契機として、区内には工場地帯のみならず商店街・住宅地にも爆発危険物が野積みにされていることが明らかにされ、区民の公害に対する危機意識をかき立てるものがあった。

 昭和四十年当時には、品川区にはまだ公害に関する業務を担当する係すらなかった。区の建設部建築課に公害係が設置されたのは、四十三年五月である。その際、都では、都市公害追放のための公害パトロール隊を設け、品川区総合庁舎に城南(港・品川・目黒・大田の四区)常駐地区の分駐所をおいた。翌四十四年四月には、公害係は建設部公害課となり、騒音規制法・公害防止条例の事務が大幅に区長に委任され、この機会に、公害の発生源となる工場新設の届け出の扱いが都から区に移されることになった(昭和四十九年四月に環境開発部公害課となる)。

 公害課の調査によれば、区民からの公害についての陳情や処理件数は、第215図のように年々増加している。その公害種別の内訳けは第216図の通りである。最も多い騒音に関する苦情は、四六%を占めている。区民生活に身近な地域性のある騒音公害が最も多く、広域公害としての大気汚染関係の苦情を圧倒しているのが、品川区における苦情の実態であるという(「品川区の公害」昭和四十六年版)。


第215図 年度別苦情陳情受付処理計数


第216図 昭和46年度公害種別苦情陳情受付処理件数

 品川区の公害の実態を把握するうえに注意しなければならぬいまひとつの点は、品川区のおかれている交通上の位置である。品川区は、都心と京浜工業地帯を結ぶ中間帯をなしている。それゆえ、都心と工業地帯を結ぶ幹線道路が、幾筋も区内を南北に縦断している。高速一号線・産業道路・第一京浜国道・第二京浜国道・中原街道・高速二号線のすべてが、都内でも有数の交通量の多い道路である。それゆえ、交通公害としての騒音・振動・排気ガスが、区内の公害のなかできわめて重い地位を占めているわけである。このような理由から、区公害課では、昭和四十六年度の夏・秋・冬の三回にわたり、区内二一地点についての自動車公害調査を実施した。地点の設定は、区内全域を一キロメートル平方の区画に碁盤の目に分割し、各区画のなかから一地点ずつを選んでおこなわれた。調査項目は、一酸化炭素濃度・鉛濃度・騒音レベル・交通量の四項目であるが、区内における公害の実態を明らかにするために、その調査結果はきわめて貴重なものというべきであろう。