公害に関する苦情・陳情のなかで、騒音に関するものが最も多いことは、先に指摘した通りである。品川区の場合、尨大な自動車交通量が騒音公害の主要な発生源となっていることは疑うまでもない。その実態は、先に触れた二一地点環境調査(自動車公害調査)によって知りうるが、その調査結果につき、騒音レベル測定結果と自動車交通量測定結果との平均値を、各地点につき図示すると、第217図の通りである。
これによると、国で定めた騒音の環境基準の道路に面する地域(商工業)の昼間基準である六五ホンを下まわる地点はA―3・C―5の二地点のみである。A―3地点とは、小山五丁目十八番付近、C―5地点は西大井二丁目の品鶴線踏み切り付近の三叉路である。もっとも、A―3地点でも、夏季の上限値は七五ホン、秋季の上限値が七二ホン、冬季の上限値は七五ホンで、右の環境基準をうわまわることもあるわけであり、C―5地点についても、夏季上限値七六ホン・秋季同七三ホン・冬季同七六ホンという数値である。
その他の地点は、すべて基準をこえる騒音状況を示している。
そのうち上位五地点をあげると次の通りである。
1 F―3地点。高速一号線西側の東品川三丁目九~十番付近。夏季六七~八八ホン。秋季六四~八五ホン。冬季六三~八七ホン。
2 B―4地点。中原街道東急バス営業所の南、西中延二丁目十四~十五番。夏季六四~八二ホン。秋季六四~八二ホン。冬季六三~八七ホン。
3 E―4地点。第一京浜国道青物横丁交差点。夏季六五~八〇ホン。秋季六七~八一ホン。冬季六三~八七ホン。
4 C―2地点。山手通り大崎郵便局前。夏季七〇~八〇ホン。秋季六八~七八ホン。冬季七〇~八〇ホン。
5 A―4地点。中原街道と田園都市線との交差点。夏季六一~八一ホン。秋季六〇~八三ホン。冬季六〇~八二ホン。
騒音レベルの最高測定値を示すF―3地点は、自動車交通量においては、かならずしも二一地点中上位を占めるものではなく、中位以下の十四位を占めるにすぎない。それにもかかわらず騒音において第一位となっているのは、同地点が他地点と異なり、重量物を積載した大型車の交通量が普通車のそれをうわまわっているからと考えられる。その他は概して、自動車交通量の多い地点が、騒音も激しい。
交通騒音には、以上の自動車のほか電車・航空機などから発生する騒音がある。羽田空港に近い品川区では、大田区とともにいわゆる「爆音公害」に悩まされている。四十六年四月二十五日東京都公害研究所が明らかにしたところによれば、羽田空港に離着陸する飛行機が、指定されたコースをはずれて陸地寄りを飛ぶため、大田・品川両区の住民の一部は「走っている地下鉄の車内並みの騒音」に悩まされているという。都公害研がこの結論を出すにいたった経過はほぼ次の通りである。
飛行機が同空港のC滑走路の北側を使って飛立ち、着陸する場合、コースの真下にあたる大田・品川両区で騒音がひどい。このため四十年十一月、運輸省は各航空会社に、このコースはモノレールより海(東京湾)側を通り、内陸には進入しないよう要望した。
この指定を守れば、コースに近い地域であっても騒音は七〇ホン台でとどまるはずなのだが、それ以上にうるさい疑いが濃くなってきたので、都は昨年七月十五日から十二月三十一日まで、品川区立浜川小学校(同区南大井四丁目)の三階建の屋上に測定装置をすえつけ、連続して騒音をはかった。
滑走路北側で離着陸する飛行機は、羽田空港の全発着数の約四分の一。しかし、測定の結果①そのまた四分の一(一日平均二九機)の飛行機が八〇―八五ホンの騒音をまきちらしていた。②時間別では午前九―十時、夜十―十一時がピークであることがわかった。
このことから、都公害研は『これらの飛行機は、指定のコースを守らず、モノレールより陸寄りに飛んでいる』と結論を出した(『朝日新聞』昭和四十六年四月二十六日)。
これらの結論にもとづいて、都は運輸相らに次の三項目を申し入れた。
1 指定コースを飛ぶよう各航空会社を指導せよ。
2 さらに強い手段として、法律にもとづき、航行の方法を告示で指定せよ。
3 周辺の住宅に防音工事の助成をせよ。
さらに「爆音公害」として問題なのは、深夜・早朝の発着による騒音である。空港周辺の住民をこの騒音から守るため、四十五年十二月環境庁は深夜の離着陸規制を勧告した。これに基づいて運輸省は、翌年三月に、羽田空港については夜十一時から翌朝六時まで、原則としてジェット機の発着を禁止することにした。この規制は四月二十七日夜から実施されたが、規制後一週間にしてかえって従前より規制時間を犯す「侵犯機」は増加する結果となった。旅行者への影響や国際的な反響を考慮した場合、この規制の完全実施は望むべくもないのが現状であるが、わずかに海寄りの発着コースの使用によって騒音の軽減をはかっているのみである。
「東京国際空港から五キロ。京浜第一国道・高速一号線・産業道路・京浜急行線に囲まれ、東京湾の悪臭も鼻をつく東京・品川区立鈴ケ森中」の場合は、まさに交通騒音と悪臭の都市公害によって教育とくに義務教育の環境が破壊された事例である。昭和三十九年同校に着任した中島定吉校長は、一〇〇ホンを超えていた騒音校舎のために、耳鳴りがなおらないでいた。騒音にまけまいと大きな声を出しているうちにすっかり「声がわり」をして、高いソプラノだった音楽教師の声が、ぐっと低いアルトになったという話しも伝えられている。
一〇〇ホンを超える騒音のなかでの授業は、しばしば中断され、生徒たちは「気が散って勉強に身がはいらない」「いらいらする」と不満を訴え、落ち着きを失ったガサガサとしたうるおいのない子供となっていった。こうした教育環境のもとでは、情操教育面での欠陥はおおうべくもなかったのである。
鈴ケ森中学を騒音と悪臭から守るために、昭和四十三年「品川方式」と呼ばれる鉄筋コンクリート四階建ての校舎を二重窓で密閉し、換気と冷暖房装置を備えた「完璧」な防音校舎が完成をみた。この結果、授業の内容は一変し、大部分の生徒は、生活や学習態度に落ち着きをみせた。同校生徒へのアンケート調査でも、「防音校舎にはいると気分的に落ち着く」が七一%、「夏の冷房が快適」が八五%という結果が出たという。
しかしながら、これによって、騒音で破壊された教育環境が完全に回復されたことにはならない。生徒たちのなかには、防音校舎は「静かすぎて調子が狂う」と一種の違和感を抱くものが生じている。生徒たちが、一日の生活時間で、防音校舎にいる時間は平均七・三時間、その二倍強にあたる時間は騒音下ですごしている。従って、かれらが急に静かな教室に置かれれば、多かれ少なかれ一種の「不適応症」を起こさざるをえない。このことは同時に、防音校舎の生徒たちに「閉ぢこめられたという不安感」を抱かせている。つくられた静けさの中での教育には、このように新しい問題が生じつつある。騒音公害と教育の問題の解決はなお道遠しである。