公害としての騒音は、以上述べたような交通騒音だけではもちろんなく、工場騒音や建設工事騒音・一般騒音がある。区内旗の台三丁目に住む佐野芳子さんは、「中小町工場の騒音に悩み苦しむ人たちが、その弱い個人の力を結集して市民運動を盛り上げ、行政機関に騒音規制強化を働きかけること」を目的に、昭和四十五年六月「騒音被害者の会」を結成発足させた。この佐野さんは、都庁などでは「騒音おばさん」と呼ばれているが、四十六年六月、騒音被害者の声をまとめて、「騒音を告発する――騒音被害者の声」と題するパンフレットを自費出版した。
還暦を過ぎた生け花教授の未亡人が、なぜこのように騒音公害と取り組むようになったかは、とりもなおさず品川区における工場騒音とくに中小工場騒音の実情がどのようなものであるかを示すものにほかならない。ここには、この「騒音おばさん」自身のことばによって、区内の工場騒音の実態の一端を明らかにしたい。
私の住む品川区旗の台は、住宅地域ですが、十年ほど前から向かい側三軒、右隣りに一軒工場が出来、小さなわが家は騒音の谷間になってしまいました。右隣りの工場は従業員十数名のプラスチック加工業で圧削音・研磨音・丸ノコによる切断音は、隣との距離わずか五〇センチメートルのわが家の窓際で八五ホンあります。この音を防ぐためには真夏でも窓は勿論、雨戸までしめきり暑さと騒音との戦いに拷問を受けている思いの生活でした。長い間に調停して二重窓、弁護士さんに直接交渉をして三重窓、区の公害課の協力を得て現在四重窓までして、やっと住居地域での基準(五〇ホン)までに下げるのに、実に六年近くもかかりました。
さらにこの工場は居住地域では建築基準法による用途違反に該当する危険きわまるラッカー吹付を屋外でしていました。そのため、わが家の沈丁花や、れんぎょうは春になっても花をつけなくなったほどです。しかも、以前は深夜一時~二時までも約一週間作業を続けました。屋外に据え付けたコンプレッサーの騒音六五ホンとブロック塀から霧になって飛び散る塗料の悪臭にたまりかねた二階のM氏は、深夜交番に走り警察官を呼んで来る始末。また次の晩は私が一一〇番を呼ぶなど、こんな状態が続いて以来、M氏も私も全くの音恐怖症にかかり、夜はこの工場の灯が消えるまでは落着かず、その不安からついに不眠症・ノイローゼになり通院するようになりました。そのうち、私の耳は二十四時間昼夜の別なく、この工場の騒音がとれなくなり、医者からは『環境を変えなければ治らない』といわれ、一年半余りアパートを借り、夜はそこで寝ることにしました。隣りの工場のために、私の生活権は全く奪われてしまっていたのです。体重は七キロも減少し、人相が変わってしまいました。
向いの工場Aは、ガスメーター器具修理工場ですが、十年余りも無許可で操業をつづけています。朝八時から午後七時まで板金の打音は絶えることなく、わが家の窓際で七〇ホン、私は毎日頭を金槌でたたかれている思いでたまりかね、その工場の親会社に当たって工場移転の契約を結んだのです。
同じく向いのB工場は三年前に、事務所を工場に拡張してからは大型の機械類を増設して、その騒音も一段と激しく、旋盤やパイプの切断音など七〇ホンを超えており、その上休むことのないモーターの唸り音がひっきりなしです。さらにこの工場へは圧縮機を積んだトラックが来て、せまい路上で鉄屑のプレス作業をするのです。その騒音が実に八〇ホン、区の公害課に依頼しましたが、これは道路管理行政だと断わられ、一一〇番に三、四回取締って貰い、この問題だけは警察の協力で解決されましたが、他の騒音はいまだに解決されないままです。
(『騒音を告発する』5~6ページ)
向いの工場Aから工場移転の約束をとりつけた経緯については、『読売新聞』(昭和四十五年八月二十八日)に「小さな勇気が勝った騒音追放の佐野さん 区役所へお百度 工場移転へ誓約書」というみだしで報道された。佐野さんは、この新聞記事の解説として「役所の世話にはなりませんでした――独力で無認可工場を摘発――」と題する文章を前掲パンフレットに掲載している。それによると、テレビもききとれない騒音に耐えかねて抗議したところ、工場主親子三人に口汚くののしられた。その口惜しさが執念となって、親会社である東京ガスに「私は東京ガスの株主(実際に)だから、この問題と下請会社は無認可工場で公害を出していることを株主総会で発言する」と僅か五、六分話しただけで、東京ガス重役二名と工場主とが、「二年後には移転する」という誓約書をおいていったという。