公害問題への措置や補償は、被害者の抵抗によって具体化される。その抵抗は、個々の被害者の個人的行動から始まるとしても、やがて同じ被害者であるという連帯の意識によって、公害反対の住民運動となっていく。しかも、四日市裁判をはじめいわゆる公害裁判の判決が、いずれも被害者の主張を認める形で結末をみたことは、公害反対の住民運動にいっそうの勇気をあたえ、運動のたかまりをもたらしている。
品川区においては、公害に対し被害者が泣き寝入りをするようなことはまったくの昔語りとなっている。もちろん、区内における公害問題のいずれをとっても、複雑な問題を内に含んでいるため、住民の運動によって直ちに公害が解消するといったようなことはない。先に述べた白金トンネルの問題をみてもわかるように、公害に対するひとつの解決策と考えられたことが、さらに別個の公害を発生させることもある。それゆえに、最近における公害問題への対応は、問題をできるだけ早い時期に先取りして、公害の発生を未然に防ぐ形の運動となりつつある。たとえば、東品川一ノ四に計画された生コン工場建設への反対運動も、予測される公害についての企業側の対策を詰問する形で展開された(『産経新聞』昭和四十七年二月十三日)。
このように、公害への住民運動が強い姿勢とたかまりをみせ、公害を最小限にくいとめる具体的成果をあげているのは日照権をめぐる問題についてである。それは、日照というきわめて日常的な住民の生活福祉につながる問題であるだけに、住民側の統一や団結も強固であり、いわゆる強力な「住民パワー」が形成されやすい。ことに、品川区のように、公園・緑地も乏しく、商店・小工場の密集地が多く、しかも、一般住宅の敷地がきわめて狭隘な地域では、ひとつの高層建築物から起こる日照の問題は多くの被害者につながり、それなりの住民パワーの形成を可能にするのである。
日照権をめぐる区内の住民パワーが、具体的な成果を収めた事例は、区の公共施設について幾つかあげられる。昭和四十五年秋に完成した中延一丁目の区立荏原文化会館(現在の荏原文化センター)は、建設の過程で、日照を求める住民の反対にあい、設計変更を行なった。これは住民の反対による公共施設の設計変更の、区内における最初のケースであった。
四十六年にいたると、同様の問題についての住民の姿勢はいっそう強くなった。区では、旗の台五丁目の東急池上線と田園都市線に囲まれた住宅密集地に、児童福祉と社会教育を兼ねた三階建の施設を建てる計画で約二、三〇〇平方メートルの土地を確保し、四十六年七月から着工の予定であった。しかし、日照権をめぐって地元住民とくに建設敷地の北側の住宅地の住民から反対がでた。数回の話しあいや説明会の結果、区側はかなりの譲歩をよぎなくされ、建物を南側に寄せ、高さをつめるなどの設計変更を三回行なって、ようやく成案をみた。その結果は、保育室の騒音条件は悪くなり、付属公園は日蔭の北側になり、庭の位置も悪くならざるをえなかった。現在、保育園・児童センター・学童保育クラブ・文化センターのある施設が、この建物である(『朝日新聞』昭和四六年六月十一日)。
住宅地における日照紛争で最も多いのは、マンション建設をめぐる問題である。業者=企業と住民との対立はしばしば深刻化し、感情的対立にまでなる場合が少なくない。業者の「ゴリ押し」と住民の「何でも反対」とが平行線をたどって、運動が非生産的となることをさけ、区をして業者から敷地を購入させ、そこに住民の要求にかなう公共施設を建てるという新しい形の住民運動が考えられる。このような事例が、実際に品川区にみられた。
昭和四十六年の秋、ある商社が区内豊町一丁目戸越公園一帯の屋敷跡(約一、四〇〇平方メートル)に七階建、一部九階、駐車場つきのマンション建設を計画した。その計画が伝わるや、北・西隣の住民から反対運動がはじまった。続いて、公園を利用する老人や幼児を抱える母親・教師・保母も加わった。運動の性格も、単なる日照確保から、しだいに「緑を残そう」「地域の自然、住・文教環境を保全しよう」へと幅を拡げた。
四十六年十一月、住民は町ぐるみの応援による三、〇〇〇人の署名を集めて、区に「用地を買上げ、区民のための福祉施設を作って下さい」と請願した。
付近に公共施設が集中していること、区内ではほとんど唯一の閑静な地域、ということで、区側も乗り気を見せた。三・三平方メートル四〇万円以上の用地買収は、区にとって資金面できわめて困難である。しかし、区役所に日参する住民側の強い要望で、区側は、開発公社の予算の一部を転用し、不足分は教職員組合支部からの借入金で、資金のメドをつけた。四十七年二月、業者と区が約一億七千万円で土地売買の契約をかわし、自然を生かした形での区教職員住宅と図書館の建設計画を住民参加の方式で立案することとなった。
日照紛争において、住民の立場は現実的に強固となり、法的規制も住民側に有利となりつつある。しかし、このことは却って、日照が問題となる建物の施行主の側の態度を硬化させる傾向のあることも事実である。施行主の権利の主張は、営利とのかかわりをもつことによって、いっそう強くなる。それがさらに住民の側の運動をエスカレートさせることもまた事実である。「マンション阻止、激突 品川住民と作業員三人けが」というみだしの新聞記事は、(『毎日新聞』昭和四十八年三月二十七日)日照紛争=マンション紛争の深刻な現状を象徴するものといえよう。
四十八年三月二十六日のこの流血の衝突事件の背景は、大要次の通りである。区内上大崎にあるA建物会社は、西五反田四ノ四ノ二に、一、二〇〇平方メートルの敷地に十階建て五四世帯収容のマンション建設を計画した。四十七年十月末、建築確認を取り、同十二月着工予定であったが、マンション北側の住民は日照権侵害を理由に、同十一月五戸一一世帯で「A建物不動前マンション建設反対の会」を結成、反対運動を進めていた。住民と業者は、都の斡旋で前後八回の話合いを行なったが、四十八年三月中旬、決裂した。
同マンションは、環状六号線の外側わずか五〇メートルのところに予定され、四月中旬から施行される予定の都の高度制限によると、二種高層地区となり、高さ一五メートル以下の建物しか造れなくなる。しかし、この規制は着工済みの建物には適用されないため、業者が着工の既成事実を作ろうと資材搬入を、三月二十六日午後一時ごろ強行しようとした。「反対の会」の会員約二〇人は、トラックの前に坐りこんで阻止した。このため、建設現場にいた施工業者I建設の作業員ら約五〇人が実力で排除、反対派は他のマンション反対団体に応援を求め、約四〇人が作業員とにらみ合った。業者側は同五時すぎに再び資材搬入を強行しようとし、なぐりあいとなった。この騒ぎで反対派二人、施工業者側一人の計三人がけがをした。大崎署は署員一五人で警戒に当たり、同七時すぎ作業員が引揚げて騒ぎはおさまった。
翌二十七日、業者側と住民代表の話合いの結果、業者側が「十階建てを八階(一部七階)に削り、日照権を奪われる家には総額二百万円の補償金を出す」と譲歩案を提示、「反対の会」がこの案をのんで、和解が成立した。