住民の直接請求による「品川区長候補者決定に関する条例」(「区長準公選条例」)を審議していた品川区議会は、昭和四十七年七月三十一日の臨時本会議で、原案を一部ゆるめ「区長候補者は区民投票の結果を参考にして選定する」という修正案を、同議会区長選出特別委員会、永井辰男(ながいたつを)委員長報告通り全会一致、超党派で可決した。この議決に対し、区側は「違法性」を理由に、区議会の再議に付したが、同議会は八月二日、七月三十一日の議決を再議決した。
そのため、区側では八月七日、都知事に対して「議決の取消しを求める審査の申立」を提出した。同月九日、都知事はこの申立に対し、「棄却」の裁定を下し、次のように評価した。
(一) 裁定にあたっては、憲法の本旨である地方自治の原点に立って考えた。
(二) 東京二三特別区の区民は、区長を自分の手で選ぶ地方自治の基本的権利を二〇年間も奪われてきたわけで、このようなことは、東京都二三特別区の区民だけである。
(三) 準公選は、たとえ変則的であっても、権利を回復する当然の要求である。
(四) 区民投票を参考にして、区議会が区長候補者を決定するのは、区議会の調査活動の一種であって、区議会の選任権を拘束するものではない。
さらに、区民投票制度は住民自治の精神に合致し、憲法の保障する自治の拡充強化になる。
(五) 区議会が、区長選任の権限を行使するにあたり、区民の意向を確かめるのは、当然のことであって、区民に一番近い区議会が、全会一致で決めたことは、当然尊重されなければならない。
品川区がおこなった「区長準公選」の意義は、都知事の右の評価に尽くされている。戦後実施された区長公選が、昭和二十七年の地方自治法の改正によって、住民意思を切り離した間接的な区長選任制となって以来、ようやく二〇年にして、準公選という形ではあるが、住民意思を区長の決定に反映させる道がひらけたわけである。
区長選任制については、地方自治法第二百八十一条三項一に「特別区の区長は、特別区の議会の議員の選挙権を有する者で年齢満二五年以上のものの中から、特別区の議会が都知事の同意を得てこれを選任する」と定められている。また、区議会が区長候補者を定めねばならないことを、自治法施行令第二百九条の一は規定しているが、その決定方法については何ら具体的規定がない。各区議会では、現実には、議会の推薦や一般公募によって、候補者を決定してきたが、議席の過半数を占める与党議員団の分裂や、多党化傾向のために、区長選任に多くの時日をかけ、長期にわたる区長空白のつづくことが、しばしばみられた。練馬区の四〇三日、新宿区の三六四日、文京区の二八〇日に比較すれば短いが、品川区でも、四十二年十二月二十五日から翌年七月二十五日までの区長空白の時期があった。四十三年四月二十四日の区総合庁舎落成式に際して、「区長不在の品川区で建設中だった新庁舎に、大臣室も顔負けの超デラックス区長室が完成した」と批判されたのは、この時期であった(資五二一号)。
このような区長選任制の欠点を補うために、区独自で条例を制定し、区議会で候補者を決める前に、まず区民の意向を知るため区民投票をおこない、その結果を参考にして区議会は区長を選任するのが、住民参加による「準公選方式」なのである。これによって、現行の選任制度の枠内で区民投票を実施し、公選に一歩近づいた民主主義の実をあげることができる。また、この準公選を運動として推進することによって、法律を改正させ公選制度を認めさせていくことも可能となるわけである。その意味で、準公選は「区長公選」への突破口にほかならない。
この区長準公選運動は、四十二年、練馬区の住民によってはじめられて以来、二三区のうち一七区に拡がった。四十六年には、準公選条例がいったん中野区議会において議決されたが、自民党が反対し、区が再議に付したので継続審議となっている。この運動が住民運動として活発になったことの背景には、過密・交通戦争・公害等による生活環境の悪化に苦悩する都心周辺区部の住民たちの、区政に対する新しい問題意識が介在している。地域の生活環境の保全や行政サービスの充実を求めていくには、区政のレベルで考えていかねばならず、そのためにはまず住民自身が区長を選ぶ権利を獲得しなければならないのである。
品川区にも、早くから公選制復活要求としての区長公選の運動があった。自治確立運営委員会の動きなどはその一例であった。それらは、区民に対する啓蒙的効果はあったとしても、マンネリズムに陥って自治法改正に直接的な大きな影響を与えることはできなかった。殊に先にあげた生活環境の悪化に基づく意識の高揚と、区長選任制の現実との間のギャップを埋めるものとして、区民の側から何らかの新しい具体的な運動が要請された。品川区議会が、四十二年十二月以降の区長選任において果たそうとしたのは、区長候補者の公募方式の実現であった。当時の表現では、これを「できるだけ公選に近い形で新区長を選ぶ」方式といっている。しかも、この公募方式すら実現できず、四十三年七月の杉本区長候補の可決は、在来の推薦方式によらざるをえなかったのである。
準公選運動という新しい公選運動は、このような経緯から問題とされてきた。とくに品川区の場合は、練馬・中野・江戸川の各区におけるこの運動に関する挫折や中絶を教訓としながら、二三区における最初の準公選実施をかちとったのである。この運動に先鞭をつけた練馬区の場合は、区民運動による条例案の創造と提案が特徴であった。これを「練馬型」と呼ぶならば、中野区の場合は、区民運動に先行して反自民五派連合が率先して条例をとりあげた点を特徴とする「中野型」である。前者では、区議会内の多党化による不統一を克服することができずに終わり、後者では住民運動のバック=アップを欠いて、五派連合をもってしても三分の二の議席がないため、自民党の反対によって条例案は再議に付されて否決されざるをえなくなり、準公選運動から革新区長の選任への転換をよぎなくされた。江戸川区の場合は、練馬型プラス中野型の形において、運動が展開されているという(東京都政調査会編「区長準公選」参照)。
品川区における準公選の歩みは、四十七年三月、議会内に区長選出特別委員会(委員長・永井辰男)を設置することから始まった。もちろんそれは、当時の杉本区長の任期が七月二十五日で満了するので、その際直ちに次期候補者の選定ができるようにとの現実的要請に答えるべき委員会でもあった。しかし、同委員会は基本方針として、「公選によることを期待するが、時期的に間に合わぬ時は現行法により区長を選任する。ただし区長候補者の選定までは、可能な限りにおいて民主的方法を探求する」こととした。研究と協議の積みかさねの結果、五月末には、中野・江戸川両区の準公選方式を参考として、「実施可能な品川方式」ともいうべき方法を積極的に検討することとされた。
区長選出特委の動きとともに、区長準公選をめざす住民運動が、四十七年五月結成の「区長を選ぶ品川区民連合」(真野稔(まのみのる)代表)と品川区自治権確立期成連盟(沖邑品吉(おきむらしなきち)会長)によって展開された。区民連合は、準公選条例の直接請求に必要な署名運動を進め、六月二十日、約三万一八〇〇人の署名をまとめ、選管の審査の手間をはぶくため、うち一万五〇二〇人にしぼって、同日区選管に署名簿を提出した(直接請求には、同区有権者の五〇分の一の五、八一〇人以上の有効署名が必要である)。選管の審査を経て、七月二日区長に準公選に関する条例の本請求がなされた。また、期成連盟では、六月二十七日、区長選出特委に、「区長選任に関する要望書」を提出、「現行法のもとで実行できる方法で区民の意向を反映する」ことを要望した。
区民連合の本請求について、杉本区長は、趣旨はいいが条例案は地方自治法に照らして疑義がある、との意見書をつけて、区議会にこれを送付した。七月七日の区議会に上程された準公選請求は、質疑のあと区長選出特委に付託された。同委員会では、これより先、六月十五日に「区長候補者の選定については、住民参加(区民投票)を得てこれを行なう」旨の超党派の統一見解を定めており、その立場から、区民連合の条例案を、直接請求代表者への質疑・公聴会等を行ないつつ審議を進めた。その結果、区民連合案のうち、条例の名称の修正をはじめ「区民の意思を調査する区民投票をし、その結果を尊重する」という点の修正を含めて二〇ヵ所の表現修正案を出し、超党派で全会一致可決し、修正部分を除く原案を同様可決した。その後、この修正案が本会議において可決され、さらに再議に付され、都知事によって適法と認められたことは、すでに述べた通りである。
品川区議会における準公選条例の成立は、区議会とくに区長選出特委において、条例案の審議をつうじて貫かれた超党派的態度の所産ということができる。当時区議会の構成は、自民二〇、社会八、共産・公明各六、民社四、無所属三(うち保守系二革新系一)であって、野党四派が連合すれば過半数を占める。しかし、条例案が再議に付され、中野区議会のケースのように、出席議員の三分の二以上の同意を必要とした場合には、事態はむずかしくなる。品川区の場合、このような事態におちいらなかったのは、もちろん超党派的立場の貫かれていたことに原因するが、その立場を貫かせたのは、住民運動として盛りあがった区民の準公選への熱意と区議会への監視の眼であったということができよう。しかも、先にも指摘したように、過去における他区の経験を参考としえたことは、成功の重要な一因であった。とくに住民運動と区議会との連携に深い考慮が払われたことは最も注目すべき点である。区民連合が結成されたとき、議会内で過半数に達する革新四派(社・共・公・民社)を幹事にすえ、直接請求の署名集めも、区議一人につき五〇〇人の割りで四派にそれぞれノルマを課した。これは「革新四派を住民運動体の中に組込み、運動の担い手とすることで、準公選実現の課題から逃げられないようにタガをはめてしまった」ことになる(『朝日新聞』昭和四十八年二月十二日)。しかも、直接請求署名は、二週間で三万をこえ、ここまでくれば、区議会が準公選条例に協力しないと議員リコール運動もおきかねないことになる。このような事情に加えて、自民党議員は、「区長準公選が広範な住民の要請である以上、反対すべき理由はない」として、超党派で条例制定に取り組んだ。地方議会の自民党員にとっては、政府・自民党にタテつくことになりかねない準公選運動に同意することは、大きな決断を要することであった。