「品川区長準公選条例」について、八月九日都知事の「適法である」との裁定がくだり、多賀区長職務代理も「裁定に従う」こととしたため、同条例は公布を待って確定することとなった。一方、区議会では、同日の区長選出特別委の理事会で、投票日を「都民の日」の十月一日(日曜日)と決めた。これによって、東京で区長公選制が廃止されてから二〇年ぶりに、二三区初の区民投票が実現する運びとなった。
ここに至って、これまで超党派的に平穏裡に進められてきた品川区の準公選実現に一石が投じられ、その波紋は意外に大きくひろがった。というのは、八月二十四日自民党東京都連が、福田一(ふくだはじめ)自治相に、東京都二三区特別区長の公選制を早急に実現するよう要望書を出し、自治相もこれを地方制度調査会に諮問することを明らかにした。そのため、準公選条例による区民投票を即時実施すべきか、延期すべきかの態度決定を品川区議会は迫られることとなった。とくに自民党は公選制の答申が出るまで延期を主張、革新側の即時実施論と見解が対立して、これまでの超党派の姿勢は急速にくずれた。
以上のような情勢の変化によって、すでに十月一日と決定された投票日も技術上延期の已むなきに至り、区は準公選条例を八月二十九日公布し、区議会は区長選定特別委員会の設置を八月三十日に可決したが、その他の審議は停滞した。区長選出特別委は、区長公選制をめぐる政治情勢を聞くため、九月二日、地元選出などの国会議員と都会議員各五人に出席を求め、懇談会を開催したが、各政党の立場からの発言に終始し、区議会内部の意見の対立を一歩も出ることはできなかった。
一方、同特別委は、九月六日夜、区内南部労政会館に約二〇〇人の住民代表を集め、区民投票の即時実施か、延期かについての意見を聞いた。参加者は、自治権確立期成連盟理事や区長を選ぶ品川区民連合の代表を主体とするものであった。準公選についての区民の理解の不足や、区民投票のための予算支出を理由にする延期論もあったが、大勢は、区民の声を聞いて決めたものを延期するのは区民を裏切ることになる。また、実施しない結果になっては、恥ずかしくて他区を歩けない、といった即時実施論が優勢であった。また区庁舎内外には、都職労品川支部が「準公選実施」を呼びかけるビラをはりめぐらして「準公選ムード」を盛り上げた。九月八日夜には、荏原文化センターで「準公選実施品川区民の集い」が開かれ、区民投票の早期実施をめざして気勢をあげた。当日、「自分で決めた区民投票を、あまり説得力のない理由で変えるなら、議員バッジを返してもらいたい」という激しい発言もあった。
自民党と革新四派との間に調整のつかないまま暗礁にのりあげた区民投票期日について、九月八日夜を徹して各党の最終態度を詰めたがまとまらず、九日午前三時半からの臨時本会議で、自民の一四〇日延期案が賛否同数の結果議長裁決で否決、革新四派の八〇日延期案が同じく議長裁決で可決された。同時に、区民投票に要する予算二八〇一万三〇〇〇円を可決した。なお、このあと区民投票の管理に当たる区長候補者選定特別委の一〇人の自民党議員は直ちに委員の辞退を申し出たが、革新四派と無所属がこれを認めなかったため否決となった。しかし、超党派体制はここに完全にくずれた。
九月十八日の区長選出特別委は、区民投票の実施期日を十一月十二日とすることを正式に決定したほか、今後の日程・区民投票実施要領・候補者間の協定書などを決めた。なお同特別委は、二十日の定例本会議で了承を受けたあと、区民投票の管理に当たる「区長選定特別委」にひき継ぐこととなった。区民投票の日程は次の通りである。
十月十九、二十日 立候補の書類の事前審査
同二十三日 投票期日の公示、立候補の受付け
同二十七日 立候補の締切り、候補者間の協定書作成
同二十八日―十一月十一日 候補者の運動期間
十一月十二日 投票(午前七時―午後六時、四〇投票所)
同十三日 開票(午前九時から品川区立体育館)
同十三日―十七日 区民の意見受付け。
このあと十一月二十三日までに、投票結果を区議会に報告、再び区長選出委がこの結果をもとに区長候補者を決定、議員提案で本会議にかけ議決したあと、都知事の同意を得る。
この区民投票に関する事務の管理は、とくに投票管理委員会(委員七名)を設けて、これがあたる。九月二十八日の選定特別委では、この管理委員を互選した(委員長・永井辰男=自民)。
準公選は、このようにして動きだしたが、これは公職選挙法の適用を受けない、いわば「選挙でない選挙」である。しかも、区民投票の一位がかならずしも区長となるわけではないという意味でも、準公選は選挙とはいえない。それゆえ、とくにこれに適用しうる法律はなく、一種の紳士協定ともいうべき投票管理委と候補者との間で結ぶ協定書があるのみである。その内容には次の事項が含まれている。
一、品川区政に関する政策と立場を明確にし、区民にその理解を求めることをもって運動の基本とします。(原文のまま以下同じ)
一、買収や供応など、金銭、物品および利権の供与をもって、区民の支持を求める行為は、いっさいいたしません。
一、いたずらに他の立候補者をひぼう・中傷することは厳につつしみます。
一、区民投票の運動の公正を確保するためつぎのことを約束します。
(1) 運動の期間 十月十八日から一五日間
(2) 運動の時間 午前八時~午後六時
(3) 連呼行為 午前八時~午後六時(ただし、個人演説会周知のため当日に限り午後八時までとする)
(4) 自動車・拡声器の使用 自動車一台、アンプ一
(5) 文書・図画 一部を管理委員会に提出する。
(6) ポスター タブロイド型(長さ42cm×幅30cm)以内(ただし、掲示は公営掲示場に限る。)
(7) 立会演説会 演説者は立候補者に限る
(8) 運動のための事務所 移動は認める
これによれば、公選法で制限されている戸別訪問はまったく自由である。管理委では、この協定書の取りかわしだけでなく、候補者を集めて、口頭でも「きれいな運動」を約束させることとした。
準公選の準備の進行のなかで、なお懸念されたのは、ひとつは、衆院の早期解散から生ずる総選挙と準公選のからみについてである。いまひとつは、区民公選に関する第十五次地方制度調査会の答申が準公選に与える影響である。とくに、後者については、準公選公示日に先立って、特別区の権能の充実強化と、区長の選任制度の問題をあわせて解決することが適当とする答申原案が明らかにされ、準公選は予定通り実施されることとなった。
十月二十三日の公示とともに、候補者としては、社会・共産・公明の三党推薦の多賀榮太郎前助役と自民・民社両党推薦の杉本重蔵前区長が立候補した。革新四派連合のなかで準公選運動を進めてきた民社党は、ここに至って独自の態度をとった。
両候補は、十月二十七日午後五時、区議会五階の臨時投票管理委員室で、永井辰男投票管理委員長の読みあげる協定書にいちいちうなずき、そのあと、同委員長、続いて届出順に多賀・杉本両候補が協定書四部に署名・押印した。この光景は、テレビやカメラにおさめられたが、「市民相互の契約と監視による自由で自主的な『市民法』」にもとづく協定書の交換として、注目すべきものであった。
両候補の運動は、きわめてフェアに行なわれた。公選法による選挙ではみられない戸別訪問は、有権者にやや奇異の感を与えたが、候補者と有権者との人間的触れあいの機会として歓迎される面がないわけではなかった。両候補とも公示日直前になって立候補が決まったため、事前運動に類することもなかった。「運動期間が短かった」との両陣営の申入れで、投票管理委は、投票日当日も投票所入口に両候補の立看板を二枚ずつ立てることを許可した。このようなところにも、公選法の選挙にはない、のびやかさがみられた。また投票は、投票用紙に両候補の名前が届出順に印刷されており、どちらかに○印をつけるいわゆる記号式投票であった。ゴム印で○をつける方法は、珍しいこともあって比較的好評であったという。
開票の結果は、左の通りで、多賀候補が第一位となった。
五七、五八一票 多賀榮太郎 62
四五、九七七票 杉本重蔵 77
開票日の十一月十三日から五日間、「区民投票の公正の確保」についての、区民の文書による意見の申入れが受付けられたが、申入れは皆無であった。その後、先にあげた所定の手続を経て、二十五日、多賀氏を区長候補者に決定する議案が全会一致で区議会において可決され、都知事に同意を求め、二十七日、区長選任について都知事の同意があり、十二月一日、区議会に同氏を品川区長に選任する旨の議案が提出され全会一致で可決された。多賀新区長は、就任挨拶で「今回の区長選任に当たっては、区民の意向が反映したという意味で意義深い。区民の、区政への期待はこれまで以上に大きいと思う。新しい局面を迎えて住民本位の区政実現に努力する」と語った(『朝日新聞』昭和四十七年十二月二日)。