品川再開発研究会の活動がはじまったころから、品川地区には小規模ながら再開発がはじめられた。地区内商店では、付近の顧客人口の減少によって蒙った打撃から立ち直るために、移転工場の敷地を都が買収し、そこに団地を建設して人口増をはかることを関係機関に要望し続けてきた。この要望がいれられ、都首都整備局の計画で、東品川に三ヵ所の都営住宅が建設され、合計四四五戸の新入居者を迎えた。そのうち、都交通局品川自動車営業所の車庫の上に建てられた都営団地一棟は、十一階建(二八〇戸)で、一階が都バス車庫に利用され、二階以上が住宅とされたユニークなものであった(資五一一号)。
国電大井町駅付近の国鉄大井工場用地は、都市開発の谷間とされていた土地であったが、四十年ころより十二階建の国鉄大井高層アパート群が建設されはじめた。これに加えて、品川区では国鉄用地を買収して、鉄筋コンクリート八階建の総合庁舎を建設した。その結果、この付近は、区の行政上の中心として、品川区における都市的核のひとつとなるべきであった。しかしながら、新聞によって「『足』を忘れた都市開発」と批判されたように、交通の不便のために、その機能をじゅうぶんに果たしえずにいる(資五一二号)。このように、区内の再開発はようやく始動したとはいえ、いまだ総合性に欠け、単なる対症療法にすぎぬきらいがあった。
区内の再開発については、断片的ではあるが、さまざまな計画が立案されている。都首都整備局が発表した武蔵小山地区の再開発プランはそのひとつである。それによると「事務所床面積を現在の約二倍に当る六千七百平方メートルにふやし、商業床面積も現在の約二ヘクタールから約五ヘクタールにふやす。地区内には、地域冷暖房計画を取入れ、公害防止をめざすとともに商業活動をさらに活発にさせようとしている。事業総額は約百七十八億円」とされている。
昭和五十年度に埋立が完成される大井埠頭は、その帰属が未定のため、品川区の再開発にいかに生かしうるかいまだ明らかでない。都の計画によると、小さい埋立地は、全部が埠頭とその関連施設、大きい方は中央に国鉄新幹線、貨物の操車場ができ、海側は一部使用を始めている埠頭、陸側に人口三万~五万人の住宅用地と商工業地帯、清掃工場、中央卸売市場・緑地のほか、すでに一部発電を始めている東電の火力発電所が完成する予定である。
帰属問題のいかんにかかわらず、品川区では、大井埠頭の活動開始に対処して国電大井町駅周辺を空・陸を結ぶターミナル=タウンとして再開発することを計画している。その具体策として、モノレールの敷設とヘリポートの建設構想に取り組んでいる。モノレールは国電大井町駅と大井埠頭を結び、ヘリポートは大井町駅と成田新空港をヘリコプターで結ぶものである。さらに現在一日二二万を数える同駅の乗降客に大井埠頭関係一〇万を加えた乗降客を処理するためには、駅ビルを中心とした大規模な再開発の必要が考えられている。
自然を失いつつある品川区にとっては、自然の保持と回復とは、再開発における重要な課題のひとつである。勝島運河を埋め立てて「東京湾に緑と魚の広場」をつくる「海洋公園」の建設も、そのひとつの企てである。これと同様な品川区の環境改善計画に「目黒川再開発プラン」がある。これは、将来森ケ崎下水処理場の処理水をポンプ=アップして目黒川に戻し、雨水を下水道管に回さず目黒川に流れ込ませて、川水を浄化し、そのうえで、上流も桜並木を植えて歩行者専用道とし、中流をショッピング=センターに貫流させて「魚を見ながらショッピンク」をキャッチ=フレーズにし、下流は、釣・潮干狩り・船遊びの場とする計画である(『日本経済新聞』昭和四十七年十一月三十日)。
このプランは、もちろん自然環境保全のための再開発プランにほかならないが、都が計画中の首都高速道路中央環状線を拒否しようというものでもあった。都の計画では、この中央環状線は、品川区内では目黒川を高架で抜ける予定である。これを拒否するための対抗策として、「目黒川再開発プラン」が作成発表されたのである。これは、広域にわたる都市計画に伴う弊害を、区レベルで問題を先取りして、未然に防いだものとして評価できる。しかし、このような点からも、区自体が持つ「町づくり」の長期構想を明示することが必要とされるのである。「品川区長期基本構想」は、このような要請に答えるものとして用意されていった。