武蔵国における古墳の築造は、すでに触れたように五世紀の前半、多摩川および鶴見川の流域に形成された大形の前方後円墳より開始された。神奈川県川崎市の白山古墳・横浜市の観音松古墳・東京都大田区田園調布の宝来山古墳・亀甲山古墳がそれであり、いずれも全長七〇メートル以上、一〇〇メートルに近い大形の前方後円墳である。これらの前方後円墳の被葬者は、その副葬品中に見られる三角縁神獣鏡などによって、畿内の大和政権と密接な関係を有していた豪族であろうと考えられている。
その後、この地域には引きつづいて古墳が築造され、多摩川中流域に田園調布の荏原古墳群と日吉の加瀬古墳群が、そしてやや上流に狛江の古墳群が見られる。しかし、五世紀前半代の大前方後円墳と比較するとき、かなり小形化の傾向がみられる。それに対して五世紀の後半より古墳の築造がかなり顕著になってくる荒川流域には、六世紀に入って全長一二七メートルを有する埼玉県行田市の二子山古墳あるいは銘文鉄剣で有名になった稲荷山古墳などを含む埼玉(さきたま)古墳群のごとく一連の大形前方後円墳が形成されるようになる。このように武蔵の古墳文化の中心地は、五世紀前半代までは多摩川流域にあったが、六世紀に入ると荒川流域に移行したことが知られる。こうした現象の歴史的背景として説かれているのは、武蔵国造(くにのみやつこ)の継承問題をめぐる事件であった。武蔵国造家の継承争乱は、表面的には大和政権側の勝利に帰し、武蔵国内に四カ所の屯倉(みやけ)が設置され、朝廷の直轄領が増加した。この屯倉の所在地については、横渟(よこぬ)は、横見郡の北武蔵に比定されるほか、橘花(たちばな)(橘樹郡)・多氷(おおひ)(多摩郡)・倉樔(くらす)(久良岐郡)は、南武蔵の多摩川上・中流域に比定されている。横渟屯倉が笠原直使主(あたいおみ)の根拠地に近く設置されている以外、橘花・多氷・倉樔の三屯倉は、旧小杵の勢力地に設置されたことは、大和政権に反抗する勢力の経済的基盤を奪ったものであることは明らかであろう。これらの屯倉の所在地付近には、高塚古墳はさして多くなく、横穴墓が多く認められていることを注意すべきであろう。
武蔵国造の内訌の後、六世紀の後半に入って武蔵国は荒川の流域を中心として大きく発展する。さきに触れた大形の前方後円墳を中心として形成されている埼玉県行田市の埼玉古墳群は、そのような背景をへて成立したものであった。そのころ、武蔵国内の各地には、小規模な前方後円墳と円墳とが、群をなして形成されるようにっていった。
ついで七世紀の後半にいたって武蔵国は前方後円墳は姿を消し、もっぱら墳丘が縮小された小円墳と横穴墓とが、八世紀の初頭まで盛行していた。