大化改新時の庶民生活

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 大化二年(六四六)一月に発布された大化の改新の詔により、公地公民の制が確立された。中央においては諸官が整備され、地方の行政単位も国・郡・里として編成されるにいたった。この段階に武蔵国も成立する。改新の詔のように、すぐ実施されたかどうかは疑わしいが、それに近い年代に実施されたと考えられる。

 当時の村は、竪穴住居がいくつか集まっている集落を元にして編成されたものと考えられ、それら集落跡からは、一般庶民の日常生活につかわれた容器としての土師器(はじき)の破片などが見出される。

 土師器は、古墳時代以降の素焼き土器の名称であって弥生土器の系統をひく酸化焔によって焼成された赤、あるいは茶褐色を呈するものである。大化の改新ころの土師器は、鬼高Ⅲ式あるいは真間(まま)式といわれている土師器編年中の中期末より後期前半のもので、須恵器(すえき)を伴っている。住居は方形で、一壁にカマドが付設され、竪穴中からはしばしば、農具などの鉄製品が検出されている。

 大化の改新が断行されたころの武蔵国をはじめとする東国の一般庶民の生活は、それ以前の時代と大差なく、竪穴住居に生活し、土師器を使用する日常であった。鉄器の普及もかなり進んでいたことと推察されるが、一般農民層への普及度はかならずしも明瞭ではない。