律令制度の確立

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 大宝(たいほう)六年(七〇一)八月、律六巻と令十一巻より構成される大宝律令(りつりょう)が完成した。天智天皇代の近江令、天武天皇代の飛鳥浄御原律令(あすかきよみはらりつりょう)についで制定された文武天皇代のこの大宝律令は、七世紀代に着々と整えられてきたわが国の律令が、形式的に完成の域に到達したものとして、その歴史的意義が高く評価されている。大宝律令は、その後、実情に応じて漸次、単行法令付加の形式をもって整備され、施行されていった。その後、養老二年の元正天皇代に、律令各一〇巻よりなる養老律令が編修されたが、その大綱は、大宝律令と変らず、さらに施行は完成後いちじるしく遅れた。

 律は刑法、令は行政組織としての官位令をはじめ、神祇・戸・学・官衙・軍防・儀制・衣服・営繕・公式・倉庫・厩牧・医疾・仮寧・喪葬・関市・捕七・獄など全般にわたり定めたものである。

 この令によって、行政の組織を見ると、中央に二官(神祇・太政)・八省(中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(じぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵・宮内(くない))、一台(弾正)、五衛内(えふ)(衛内・左右衛士(えじ)・左右兵衛(ひょうえ))を設置し、地方に左右京職・摂津職(しき)・大宰府を、さらに国・郡をそれぞれ置いている。国は、大・上・中・下・小の五種となし、郡の下に里(のち郷と改称)をたてた。

 これによって、日本全国は、国によってわかたれ、それは郡より構成され、郡は里(郷)によって編成されていたことがわかる。里は、五〇戸をもって構成され、里長が置かれていた。国に五等級があったように、郡にも大・上・中・下・小の五等級があり、それは里の数によって分たれていた。

 国には中央より国司が派遣され、郡には地方豪族のなかから郡司がおかれ、それぞれの政務を司っていた。この国司と郡司は、朝廷の任命によるものであり、中央集権の姿を示している。

 また、戸籍計帳をつくり、それには戸主・戸口・男女・婚姻・良賤などが記載された。土地は国有化されて公地となり、田令によってその細目が規定された。いわゆる公地公民制の実施である。さらに、賦役として、調・庸・義倉・免課役・雇役丁・雑徭・仕丁が定められていたのである。

 このように律令にもとづく政治体制は、中国を範として整備されたものであり、中央集権国家の実態が示されたのであった。