武蔵(国)については『古事記』に「牟邪志」、『国造本紀』に「旡邪志」・「胸刺」と見えているが、それを武蔵と表記するにいたった経過と年次については明瞭ではない。天武十三年に「武蔵国」(『日本書紀』)と見えていることにより、これをただちに「武蔵」表記のあらわれとし、また、その表記の開始を和銅六年(七一三)に郡郷の名に好い字をつけるように命じた以後と考えることは、あくまで推測にすぎない。「武蔵国」と明らかに表記された資料は、武蔵国分寺が創建された時に用いられたと思われる女瓦(めかわら)の表面に箆書(へらがき)された例があり、また正倉院古裂の調布屏風袋記銘およびそれに押捺された「武蔵国印」などによって、八世紀の後半には「武蔵国」という表記が普及していたことが明らかである。武蔵国は『延喜式』によれば大国であり、二十一郡を管掌していた。それは「久良(くら)・都筑(つづき)・多麻・橘樹(たちばな)・荏原(えばら)・豊島(としま)・足立(あだち)・新座(にいくら)・入間(いるま)・高麗(こま)・比企(ひき)・横見・埼玉(さきたま)・大里(おおさと)・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんさわ)・那珂(なか)・児玉・賀美(かみ)・秩父」の各郡であるが、高麗郡は霊亀二年(七一六)に、新羅=新座郡は天平宝字二年(七五八)に後置されたものであり、武蔵国設置の初期的段階においては、この二郡を除く十九郡より構成されていたと考えられている。
品川は、荏原郡内にあり、武蔵国の東南の地を占めていた。この荏原郡は、「蒲田・田本・満田・荏原・覚志・御田(みた)・木田・桜田・駅家」の九郡より形成されていたことが『延喜式』および『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』の記載より知ることができる。しかし、九世紀前半と考えられている『和名類聚抄』の高山寺(こうざんじ)本によれば、蒲田を〓田、御田を美田と表記し、駅家郷の記載は見られない。蒲は〓の同音異字であり、武蔵国分寺出土瓦にも〓と見えており、蒲より〓の方が古い用例であることが知られる。御田は同じく国分寺瓦に三田と見え、美田と同じ郷名の表記であったことが察せられる。また、駅家郷は『延喜式』兵部省の「諸国駅伝馬」に見える大井の駅家所在地と考えられている。
現在の品川区は、荏原郷を中心とし、駅家郷(大井駅)を含み、御田郷の一部に及んでいたと思われる。