品河清実と品川郷

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(「中世の品川」中扉の写真)


▽海晏寺五輪塔

 

 

 源頼朝が伊豆韮山に挙兵して、鎌倉幕府成立のきっかけを作ってから四年後の元暦元年(一一八四)八月七日、品河三郎清実という武士が、頼朝から一通の下文(くだしぶみ)を賜った。

 

品河三郎(清実)の所知に 下す

 早く限りある仏神事のほか、品川郷雑公事(ぞうくじ)を免除すべきこと

右くだんの雑事、限りある仏神事のほか免除せしむるところなり、(大江)広元存ぜしむるなり、よって下知くだんのごとし、もって下す、

  元暦元年八月七日


第26図 源頼朝下文(東京大学史料編纂所影写本「田代文書」)

 この文書は、品河氏の所領の一部が、鎌倉時代の中期から末期にかけて、品河氏の女子と養女の嫁入りさきである和泉国大鳥庄(現大阪府堺市)地頭田代氏に譲られたことにともなって、江戸時代の久留米藩士田代氏の相伝文書のなかに伝えられた。現在のところ歴史上の史料で、「品川」の地名が現われる最古のものである。そして文書は、内容が簡単であるにもかかわらず、はるか八百年前の郷土がどのような状態にあったか、という私達の疑問に対して、いろいろな事情を雄弁に語りかけてくれるのである。

 まず「品川郷」という表記に注意してみよう。品川は荘園ではなく、「郷」であった。一般にこの時代の日本社会の骨組みを、荘園体制社会という概念で大づかみにとらえ、先行の律令体制社会と後に現われる大名領国体制社会とは、きわだって異質の構造をもつ社会と考えられている。しかし、日本の全土が荘園で覆いつくされたのではない。むしろ律令国家の国単位の地方行政機関=国衙(こくが)が変質しながらも生きつづけ、国衙の支配地が広く残存していた。それを国衙領といい、郡・郷・保(ほう)などが国衙領につけられた呼称であった。品川郷も当然国衙領であったろう。

 ところで頼朝の下文で明らかなように、品川郷は「仏神事」――おそらく国衙が祭る特定の寺社へ納める課役――以外の雑公事(ぞうくじ)(雑税)を免除されていた。このことは、品川郷の農民が本来国衙に納入しなければならない桑・麻・絹・苧(からむし)などの畠や菜園からの生産物と手工業的製品、それと夫役(労働力の徴発)を品河清実の収入としてよい、ということである。一方、田畠にかかる本年貢・畠地子(ちし)は、清実の手を通じて国衙に納入される。(徴税権)。このほか清実は、品川郷の農業生産がとどこおりなく遂行されるように、農民に種子を貸与え、用水や溜池を管理し(勧農権)、軽犯罪を取締る(検断権)というような権限をあわせ持っていたであろう。

 時代ははるかに下るが、室町時代の応永三一年(一四二四)に、関東公方(くぼう)足利持氏が、当時の品河氏の惣領と考えられる品河太郎の所領を「寛宥の儀をもって堀内分」を除いて、すべて没収するという事件が起きた(「上杉家文書」)。堀の内は、地頭が居住する館と下人・所従(しょじゅう)などの隷属農民が耕作する直営田畠の総称であって、所領の中核として年貢・公事は免除されていた。こうしてみると、品河清実は、国衙と品川郷の農民の中間に位置する、いわば徴税請負人の立場にあり、本来律令国家に属していた徴税権・勧農権・検断権を私的な財産(所職(しょしき))として世襲する在地領主の一員であったのである。これらの権限は、国衙の下級官職に就くことによって保証されていた。郡司・郷司・村司などの官職である。品河清実を、国衙領品川郷の郷司であったと考えて、ほぼ誤りない。

 清実の子清経は、貞応二年(一二二三)に「南品川郷桐井村」の地頭職(しき)を幕府から安堵された(「田代文書」)。清実の品川郷郷司職(しき)が子の世代に分割され、清経が桐井村(旧桐ケ谷村・現品川区西五反田一帯か)の村司職=地頭職を得たのである。すでに鎌倉時代に品川郷が南北に分れ、南品川郷の郷域が江戸時代の南品川宿の境域によりはるかに広く、戸越村から桐ケ谷村までをふくんでいたことがわかる。