品川郷の成立

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 さて、律令制下の荏原郡は九カ郷からなりたっていた。品川郷は九カ郷のなかに見当らない新しい郷である。旧郷との関連で考えれば、品川郷は駅家郷=大井郷(品川区大井)と御田郷(港区三田あるいは目黒区三田)に挾まれた地域であるから、どちらかの旧郷から分離してきたものにちがいない。このことは、十世紀前後から中央集権的地方行政組織の解体が進行して、律令制の郡・郷そのもの、あるいは旧郷から分離した新たな郷(村)=中世的郡郷制の成立という一般的な動向を、品川郷もそのとおりに現わしているのである。

 関東地方は、中央の貴族からは政府の支配が満足に行きわたらない「亡弊国」とみなされ、九世紀から十世紀にかけて「凶猾党をなし、群盗山に満」ち、「群党を結び、すでに凶賊」なるものが横行していた。将門の乱は天慶二年(九三九)の常陸国府への襲撃と占領から叛乱に転化したし、長元元年(一〇二八)に始まる平忠常の乱で、忠常は安房と上総の国府を占領し、国司を殺したり捕虜にして、中央への貢納を抑留した。このような関東の領主たちによる反国衙の戦いは、国衙領を分割し、領内農民に対する支配者として立ち現われた彼らの権利が、ともすれば国司によって否定されてしまう、という現実への抵抗であった。領主たちが国衙の制約から脱れ、真に自分の権利を保証してくれる権力の出現を望みはじめたとき、鎌倉幕府という新らしい国家の成立は、もはや目前に迫ってくる。