昭和四十年(一九六五)、鹿児島県の故大井兵蔵氏が家蔵の古文書一一点と系図を県立図書館に勤務する野間真信氏のもとに持参し、桑波田興氏・竹内理三博士の手を経て学界に紹介され、はからずも、従来『吾妻鏡』(鎌倉幕府編纂の歴史書)によってしかたどれなかった大井氏を、武蔵国における所領のあり方、分家の薩摩移住とその地における動向などの面にまでひろがる研究が可能となり、ひろく東京の歴史を研究するうえに貴重な手だてをもたらした。もっとも古い文書は、次の一通である。
譲与 処分の事
武蔵国荏[ ](原郡)大杜(おおもり)・[ ](永富両郷)に 在り
四至(しいし)東は海を限り、南は鳥羽川の流れを限り、西は一木を限り、北は那由溝を限る、
(中欠)
右の所は、四郎秋春にこれを譲与するところなり、あえてもって疑うべからず、ただし手継(つぎ)の文[ ]を相副(そ)うべきといえども、[ ]のほか継がしめおわんぬ、さらにもってこの譲状に違(たが)うべからざるものなり、よって処分くだんのごとし、
元久元年十二月□七日
地頭左衛門(大井実春)[ ]
この譲状で大井実春は、四男と思われる秋春に大森郷と永富郷の地頭職(しき)を譲与した。言うまでもなく、大森郷は江戸時代の北大森村・東大森村・西大森村の地にあたり、永富郷は旧東大森村の小字(あざ)「中富」に古い郷名を残した(大田区立中富小学校付近)。ここで重要なことは、大森・永富両郷が、実は六郷保(ほう)の一部であり(「大井文書」・「大慈恩寺文書」)、実春が六郷保郷司であったらしいことである。保とは国衙領そのものであって、六郷保は律令郷制の蒲田郷内に生れた大森郷・永富郷・蒲田郷・六郷本郷・原郷・堤郷の総称であったらしい。秋春は六郷保の一部である大森・永富郷を父から分割譲与されたのである。秋春系大井氏に、秋春――蓮実(実名不明)――頼郷――行重(薩摩渋谷祁答(けどう)院氏を継ぐ)――養子千代寿丸の系譜で両郷を伝領し、南北朝時代を迎えた。