「大井文書」が東京の歴史を研究するうえに、貴重な史料である理由の一つには、鎌倉時代中期の東京に生活した農民の姿を、垣間みることができることにある。弘安七年(一二八四)八月一六日、大井頼郷は嫡子薬次郎(行重か)にあて、大森・永富両郷と伊勢国香取郷地頭職および鎌倉今小路の居宅とともに、荏原郡堤郷中にかう大夫・次郎太郎らの田在家と「手作り」を譲与した。在家とは当時の関東地方における一般農民のあり方である。その本質をどのように考えるか、学説上の論義が多いのであるが、ここでは、在家農民が他の所領から区別され、領主大井頼郷が譲与の対象とする「財産」であったことに注目しておきたい。
『文京区史』編纂の過程で発見された佐賀県の「深江文書」にも、弘安四年(一二八一)に多賀谷重政が「まつつる(松鶴)かはは(母)」に与えた所領に「むさし(武蔵)の国ゑと(江戸)のかう(郷)しはさきむら(芝崎村)」の在家「かうた入(道)」があり、在家つきの田畠が重政の私領とされていた。鎌倉時代の区域の歴史は、大井・品川氏のような領主と、彼らをとりまく家子(いえのこ)郎党・郎従らの武装集団、領主直属の下人や所従、それに領主支配のもとにあって主要な社会的富の生産に従事した広汎な在家農民、これらの諸階層がおりなす現実生活のうえに展開するのである。