さて大井実春にせよ品河清実にせよ、この兄弟はれっきとした鎌倉幕府の御家人であった。源頼朝は治承四年(一一八〇)八月の挙兵で石橋山合戦に敗れ、安房に逃亡したが、十月には勢力を回復して、同二日に大軍を率いて長井渡(ながいのわたし)に到着する。江戸太郎重長は降参し、頼朝から武蔵国の在庁官人(在地領主で国衙に勤務するもの)と郡司に対す命令権を与えられた。実春・清実兄弟もこの時に頼朝の家人となったであろう。なぜなら、もともと国衙の命令系統に属した大井氏一族は、頼朝から武蔵の国務執行をゆだねられた江戸重長の指揮下に入らなければならなかったであろうから。
それ以後、大井実春の活躍はめざましい。『吾妻鏡』によると、源平合戦最中の元暦元年(一一八四)三月、頼朝の命をうけて伊勢国における平氏の残党を討伐に鎌倉を出発し、翌年には頼朝の叔父志田義広を伊勢羽鳥山で討取るという武功をあげ、文治元年(一一八五)に伊勢国香取五郷(現三重県桑名郡多度町香取、うち上郷地頭職が秋春系大井氏の所領となる。)を与えられた。また実春は大力の勇士であったらしく、建久二年(一一九一)に頼朝が三浦義澄の新邸に遊んだとき、三浦義澄・同景連・佐貫四郎とともに終日相撲をとったという。
子実久も父親ゆづりの力持ちで、頼朝が奥州平泉藤原氏を滅ぼした戦捷記念に建立した永(よう)福寺の作庭にあたり、畠山重忠・佐貫大夫ととも庭石を運んだ。畠山重忠は一丈(約三メートル)の巨石を庭の中心に引いて、見る人を驚かしたという。『吾妻鏡』は「およそ三輩のつとめ、すでに百人の功に同じ、(頼朝の)御感再三に及ぶ」と特筆しているから、実久の強力も相当有名であったろう。
実久は有力御家人の一人でもあった。正治元年(一一九九)正月に頼朝は死亡する。長子頼家が将軍職を継いだが、偉大な独裁者頼朝のもとに結束していた御家人の間に動揺が生じ、対立が表面化した。そのあらわれが頼朝の寵臣梶原景時追放事件であった。この時、鎌倉在勤の有力御家人六六人が景時の処罰を要求する連判状を提出しているが、実久は、幕府創業の功臣千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政・和田義盛ら、『吾妻鏡』が記録する三九名の一人である。おそらく彼は、大井一族を代表する惣領として署名に加ったのであろう。景時が鎌倉を追放され、一族をひきいて上洛の途中で敗死した正治元年(一二〇〇)正月からほぼ一カ月後の二月二十六日、頼家は忌明け以後はじめて鶴岡八幡宮に参詣した。このとき、実久は頼家の甲(よろい)を捧持して供奉するという大役を果した。実久の名は、これ以来『吾妻鏡』から消えてしまう。