品河清実

57 ~ 58

 品河清実の活動は、一族の惣領大井実春・実久のはなばなしさにくらべて、それほど目立ったものではない。しかし『吾妻鏡』によると、源平合戦が大詰に近づいた文治元年(一一八五)二月、清実は源範頼の麾下に属して、周防から九州豊後への渡海作戦に先陣をかけ、平氏の与党大宰少弐(たざいのしょうに)(大宰府の次官)原田種直を敗死させた。この戦闘に清実の名がとくに記録されたのは、よほどその活躍がめざましかったからであろう。渡海作戦の先陣は、海をよく知り、船のあつかいになれ、海上戦闘に強い軍勢でなければつとまらない。品河氏は多少なりとも水軍であったのではなかろうか。東京湾に面する品川の領主が、海と船に無関心であるはずがない。品河氏は兵船をもち、海上戦闘の訓練をおこない、品川の漁民や農民を水夫に徴発していたかもしれない。このような想像がなりたてば、品河氏の兵船の基地は、目黒川河口であったろう。後でふれる室町時代の品川湊の前身を、思いのほか古い時代にさかのぼらせることができるかもしれないのである。

  大井氏一族の所領分布範囲はせまい。始祖実直の土着時期が一二世紀前半で、比較的新しいことと関係あろう。江戸重長・豊嶋清元・葛西清重ら、同時代における区域周辺の大豪族との交渉を、もっと研究しなければならない。実直の長子実重が相模高座郡渋谷光重の養子に入ったという所伝(「紀氏系図」)などが示唆的で、領主間の婚姻を通じた関係が解明の糸口になるかもしれない。