元久二年(一二〇五)、幕府執権北条時政による有力御家人排除の犠牲になって、畠山重忠が武蔵の二股川で敗死する。『吾妻鏡』は重忠追討軍に加わった御家人の名を列記したあとに、「大井・品河・春日部・潮田・鹿嶋・小栗・行方の輩」と記録するのみで、戦闘に参加した大井氏一族の名はわからない。ただ、わたくしたちは、『吾妻鏡』が一族の四氏を、児玉・横山・金子・村山党と、武蔵七党の系譜をひく中小武士団と並記していることから、強い同族のつながりのもとに、まとまった軍隊として行動していることを知るのである。
頼朝の死から陰謀がうずまき、動揺をかさねた幕府を、幕府そのものの弱体化と判断した後鳥羽上皇は、承久三年(一二二二)に倒幕挙兵にふみきり、いわゆる承久の乱がおこる。幕府御家人は北条義時のもとに結束して京都へ攻めのぼった。最大の激戦が京都南郊の守備線である宇治橋で戦われた。大井一族では、大井太郎・大井左衛門三郎・品河小三郎(実貞)・品河四郎太郎・潮田四郎太郎が敵を討ち取り、品河四郎(春員)が負傷し、品河次郎(信実)・品河四郎三郎・品河六郎太郎・潮田六郎(実成)が戦死した(『吾妻鏡』)。品川氏が一族をあげて参戦し、三人の犠牲者を出しているが、主人に従って戦場に赴いた郎党や所従・下人、陣夫に動員された農民で屍を戦場にさらしたものも多かったにちがいない。その人たちの名は残らないが、先祖の苦悩を忘れてはならないだろう。品河春員(清実の孫)は戦功として乱の二十一年後の仁治三年(一二四二)四月五日に、近江国野洲南郡三宅郷(現滋賀県野洲郡守山町)の地頭職に任命された(「田代文書」)。この所領が前述のような経過で、鎌倉時代の末期に田代氏に伝領されるのである。
承久の乱後、大井・品河氏の姿は、『吾妻鏡』から次第に消えて行く。はっきりした理由はわからないが、この時期に大井一族の中心が、始祖実直の四男春日部実高(あるいは実平)の系統に移ったらしいことと関係があるだろう。寛元元年(一二四三)ごろから春日部大和前司(ぜんじ)・同甲斐守実景父子が、三浦泰村と結んでめだった活動をはじめ、宝治元年(一二四七)の合戦で三浦氏とともに滅亡する。