大井氏の諸流で、歴史上に跡をとどめるのは秋春系大井氏である。前にふれたように、秋春の子孫は、秋春――蓮実(法名)――頼郷――薬次郎(行重か)――千代寿丸と続いた。このうち行重(出家して行意と称する)は、母の実家であったらしい薩摩国薩摩郡渋谷氏一族の祁答(けどう)院氏を継承する。この間の経過は複雑で不明なところが多いので詳細は省略するが、重要な点は、延慶二年(一三一〇)に秋春系大井氏の所領の一部である伊勢国鹿(香)取上郷内是利名(これとしみょう)・重□名と祁答院内柏原の平河(現鹿児島県薩摩郡宮之城町上平川・下平川)を大井小四郎なる人の子王一に譲り、さらに元徳元年(一三三一)には、千代寿丸という童子に秋春系大井氏の根本所領大森・永富両郷に加え、惣領職(本家の家格と権限)と鎌倉の屋敷を与え、大井姓を名乗らせたことである。大井氏が武蔵からはるかへだたった薩摩と結びついたきっかけは、まったく明らかでないが、渋谷祁答院氏との婚姻関係を通じて薩摩に所領を得たからであろう。それは十三世紀後半のことであり、秋春系大井氏の活動に新しい天地が開けたのである。その後、薩摩の大井氏は祁答院氏の家臣として北薩の地に活動し、戦国期における祁答院氏の滅亡後、やがて島津氏の家臣に組みこまれて、現在にいたるまで数家の大井家を鹿児島県に残した。