品河清実以後、同氏の正統は明らかでない。現存の古文書をたどってみると、貞応二年(一二二三)に父清実の遺領伊勢国員弁郡曽原御厨(みくりや)(現三重県員弁郡員弁町楚原)・武蔵国南品川郷桐井村(前出)・陸奥国長世保弘長郷・和泉国草部郷(現大阪府泉北郡福泉町草部)を継いだ清経がいる(「田代文書」)。桐井村以外の遠隔地所領は、清実が幕府から与えられたもので、品河氏の本来の所領ではない。同様に、承久の乱において宇治川合戦で戦傷を負った四郎春員(入道成阿)の子と思われる刑部左衛門尉清尚は、仁治二年(一二四一)に紀伊国粉河(こかわ)寺領丹生屋(にゅうや)村地頭であった。この地頭職は、清尚――為清――宗清とつづいて、文永五年(一二六八)ごろまで高野山領名手庄の庄官・百姓と水無川の用水・境界をめぐって激しい争いをくりかえした。中世の水利史上でも著名な事件である(「高野山文書」)。
丹生屋村の支配は、もっぱら地頭代にまかせていたらしい。この系統の品河氏は和泉国が本拠地であったと思われる。宗清は、永仁六年(一二九八)高野山天野社領和泉国近木(こき)庄に対する狼藉人を召喚する任務を六波羅探題から与えられ、同じように、正和元年(一三一二)には和泉国大鳥郷前刀祢(とね)(庄官)の子宗親らの非法に関して召喚の執行を命ぜられている(「田代文書」)。宗清がこのような任務を与えられたのは、かれが和泉国に在住する名の知れた御家人であったからであろうし、前述のように春員――清尚系品河氏の所領近江国三宅郷が田代氏に伝領されたことも、和泉国在住の御家人同志の婚姻関係の成立が前提になっていたのである。
元弘三年(一三三三)正月、千早城を守り抜いた楠木正成は摂津国天王寺(大阪市)に出撃して幕府軍を追い落した。和泉国守護の麾下に「田代・品河・成田以下地頭家人」(「楠木合戦注文」)とあり、品河宗清その人か、宗清の子であったろう。そして南北朝期の貞和二年(一三四六)ごろ、丹生屋村地頭に品河三郎光清の名がみえ、いぜんとして紀伊国における所領を確保していたことがわかる(『賢俊僧都日記』)。
和泉国の品河氏のほかに、品河氏は各地に分布している(太田亮編『姓氏家系大辞典』)。応永十一年(一四〇四)の安芸国(広島県)における有力領主の連合体=国人一揆三三名の一員に、品河近江守実久がいる。家系も移住時期も不明であるが、鎌倉時代か南北朝時代のある時期に、幕府から安芸国内の地頭職を与えられ、有力国人に成長した品河氏の一流の子孫であろう。また明応八年(一四九九)ごろには、安芸国守護武田元信方の有力国人に品河左京亮膳員「毛利家文書」、永正一三年(一五一六)に毛利元就と戦って敗れた武田元信の家臣に品河左京亮信定がいる『安西軍策』。のち安芸品河氏は、戦国大名から近世大名へ成長した毛利氏の家臣に編入され、下級武士として、数家の品河氏を残した。