さて、大井氏にせよ品河氏にせよ、西国に移った家系が順風満帆で発展したようにみえるが、その本拠地においてはどうであったろうか。
鎌倉時代の末期、幕府執権北条氏の支配が東京湾西海岸を北上して、品川の地へもなにがしかの影響をおよぼした形跡がある。南品川五丁目海晏寺の建立伝承、鮫洲の地名起源伝承、伝北条時頼と伝二階堂貞藤(法名道薀・幕府政所執事)の五輪塔の伝存、元応二年(一三一九)の二階堂貞藤による品川神社社殿再建および文和三年(一三五四)における北品川清徳寺塔頭(たっちゅう)光厳寺の建立等の伝承である。これらは、いずれも歴史上の事実でないが、北条氏が東京湾西岸の主要港であり、鎌倉の外港という機能をもつ六浦(むつら)湊(現横浜市金沢区)を早くから掌握し、神奈川湊がある鶴岡八幡宮領神奈川郷を押えて、東京湾の支配を策したことと関連して、おそらく鎌倉時代から港の機能をもっていたであろう品川に、北条氏の影響がおよんでいたことの反映であろう。
たしかに、秋春系大井氏の所領大森・永富郷に対する上級支配権(郷司職か)は、鎌倉時代末期に北条氏一族と思われる陸奥五郎の手にあった。また応永三年(一三九六)に関東管領上杉朝宗が室町幕府から保証された所領のうちに、旧北条氏の所領神奈川郷・六浦本郷と六郷保郷司職がふくまれているのであるから、六郷保郷司職は鎌倉時代末期に大井氏から離れて、北条氏一族の手に帰していたと考えられる。
南北朝時代に入ると、大井氏の本家の所領と思われる大井郷不入読(いりやまず)村(旧荏原郡不入斗村、現大田区大森北一~六丁目)は、観応元年(一三五〇)に美濃の土岐頼高の所領となっていた(「土岐文書」)。加えて明徳二年(一三九一)に、二代目の関東公方足利氏満が陸奥五郎跡六郷保大森郷(永富郷をふくむ)を、下総国大慈恩寺の塔婆料所に寄進している(「大慈恩寺文書」)。すでにわたくしたちは、陸奥五郎が北条氏一門のだれかであり、陸奥五郎の大森・永富郷に対する領主権は郷司職であったろうと推定しておいた。そしてまた、この両郷が秋春系大井氏の相伝の所領であることを再三述べてきた。そのような来歴をもつ大森・永富郷が大慈恩寺領にくみこまれたのである。両郷の地頭職を相伝の所領とする秋春系大井氏は、鎌倉時代中~末期に活動の舞台を薩摩に移しており、そのためか、大井千代寿丸は建武元年(一三三四)に両郷を「悪党」に押領されかかったのである(「大井文書」)。鎌倉府による両郷の大慈恩寺領寄進は、秋春系大井氏の両郷支配に終止符を打ったにちがいない。
しかしそれにもかかわらず、大井氏の残流は、十五世紀前半まで大森・永富郷に関係していた。応永二十四年(一四一七)には大慈恩寺領大森郷代官に大井中務四郎なるものがおり、その舎弟の故五郎は「百姓」として代官給田畠を耕作していたという(「大慈恩寺文書」)。これより以前の応永十一年(一四〇四)には、江戸氏の庶流江戸蒲田入道が両郷を押領するという事件が起きており、二十四年には大井中務四郎の代官給田畠が金井式部丞に押領されるのである。この年は、関東地方を大混乱におとしいれた禅秀の乱が、年のはじめに終ったばかりであり、乱の終息に決定的な役割を果した在地の中小領主が、関東の歴史の主導権を握った年である。在地に足場を失ってしまった大井氏は、もはや抵抗する術をもてない。
大井氏に関する史料は、ここで切れてしまう。史料がなくなるだけでなく、大井氏そのものが品川区域の周辺から消えてしまうのである。十二世紀中葉に大井実直が大井郷に居を構えてから二五〇年間、品川・大田区域を支配しつづけた大井氏は、室町幕府や鎌倉府の上から圧力と、鎌倉時代的な一族統合の原理=惣領制のわくから抜け出して自立しようとする、中小領主の旧秩序(鎌倉府体制)への反抗の犠牲になって没落するのである。