品河氏の没落

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 品河氏が、その本拠地である品川区域で行なった所領支配の様子や政治的動向は、鎌倉時代の中期以後から南北朝時代にかけて、まったくわからなくなる。ところがまことに突然、応永三十一年(一四二四)になって、品河氏が現存の文書三通のうえに現われるのである。それも品河氏の没落をわたくしたちに教える悲劇的様相をともなって。

 応永三十一年(一四二四)、四代関東公方足利持氏は母の一色(いっしき)氏の侍女にあて、品河太郎の堀の内を除く全所領を没収し、母の料所にすると通知した。持氏母の侍女たちが所領を支配できるはずがない。要するに品河氏の所領は公方持氏に没収されたのである。品河太郎の実名は不明である。しかし通称の太郎は、鎌倉時代初頭以来、連綿と品川に住み、品川郷を支配しつづけた品河氏の惣領家であることを想像させる。

 品川太郎の所領没収の理由は明らかでないが、単独に行われたのではなかった。同じ年に武蔵国青砥(あおと)四郎左衛門入道の所領も、堀の内を除いて持氏母の料所とされている。なにか根深い政治的理由があったにちがいない。例を探してみよう。禅秀の乱が上杉禅秀(氏憲)一党の滅亡で終りをつげた応永二十四年(一四一七)の閏五月と十月に、上総国千田庄大上郷二階堂右京亮と同国天羽郡萩生作海郷皆吉伯耆守の所領を、持氏の母の料所として没収することがあった。禅秀与党の処罰である。こうしてみると、品河氏と青砥氏の所領没収は、乱後だいぶ年数がたち、没収の直接のきっかけもわからないにしても、禅秀与党の罪を責められた結果ではなかったろうか。

 応永三十一年(一四二四)を最後にして、品河氏は品川の地から姿を消してしまう。大井氏と同時期であり、ともにその本拠地に子孫を戦国時代まで残さなかった。こうして十二世紀中葉以後、国衙につらなる郷司として、また由緒正しい鎌倉幕府の御家人として、二百数十年間にわたり品川・大田区域を支配しつづけた一族は没落した。大井氏と品河氏の出現で始めたこの節の最後を、品河氏の抵抗と没落の悲劇をあからさまに示す次の文書でしめくくることにしよう(「上杉家文書」)。

 

大御所(持氏母)御代官申す御料所武蔵国品河太郎跡堀内分を除くの事、注進状その沙汰おわんぬ。ここに品河太郎多数を率(ひき)い、固め支(ささ)え申すとうんぬん、はなはだ重科を招くか、所詮重ねてかの所に莅(のぞ)み、下地(したじ)を大御所御代官に沙汰しつけらるべし、すでにかの跡においては、一円に収公せらるべきといえども、寛宥の儀をもって堀内分を残さるるのところ、あまつさえ御代官に対し、雅(が)意にまかせ支え申すの条、罪科のがれがたし、なおもって異儀におよばば、与力人といい交名(きょうみょう)人といい、起請文の詞(ことば)をのせ、不日(ふじつ)に実否を注進すべきの状、仰せにより執達くだんのごとし。

 応永卅一年七月五日  藤原(上杉憲実)(花押)

 大石遠江(信重)入道殿