帆別銭

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 中世における東京湾海上交通の実態は、ほとんど明らかにされていない。しかし宝亀二年(七七一)に武蔵国が東山道から東海道に転属される以前、東海道は相模国から安房――上総――下総へ通じていて、古くから東京湾頭の航路が開けていた。現在、東京湾西海岸の沖合が大規模に埋立てられ、汀を奪われた都民は、林立する工場群に視界をとざされてしまったが、房総の山なみは海をへだてて指呼の間にある。東京湾上の海上交通は、わたくしたちが考える以上に、古くから活溌であったのではなかろうか。

 さて、品川湊に関する史料は、永和四年(一三七八)にはじめて現われる。この年の八月三日、武蔵国守護上杉憲春は守護代長尾景守に、神奈川・品川以下武蔵国浦々に出入する船から徴収する帆別銭(入港税か、帆一反あたり銭三〇〇文)を、この年以後三カ年にわたり鎌倉円覚寺の塔頭(たっちゅう)(支院)仏日庵の造営費用にあて、円覚寺の雑掌(ざっしょう)(寺役人)に守護の使節をつけて、それぞれの地頭の所へ赴かせ、家一軒を雑掌の宿舎に指定し、帆別銭の徴収がうまくゆくように命令した。翌康暦元年(一三七九)十二月二十七日、武蔵国守護上杉憲方は重ねてこのことを守護代大石信重に命じた。ついで永徳四年(一三八一)二月十五日、関東公方足利氏満は、将軍義満の指示により、仏日庵造営料所「武蔵国浦々帆別(銭)」の徴収を円覚寺長老に保証した。このようにして、品川湊に寄港する船の帆別銭が、永和四年以後、永徳四年ごろまでの約七年間、仏日庵の造営費用にあてられた(「円覚寺文書」)。

 当時、官立の寺社造営費用には、幕府が国家的事業の一環として一国単位の土地台帳にもとづいて、臨時に賦課した段銭(一国平均役)を充当したり、家屋の軒数割りに国単位に賦課する棟別銭をあてるのが一般的であった。武蔵国に例にとると、至徳二年(一三八五)に国中の棟別銭が円覚寺の造営費用にあてられ、守護上杉憲方が守護代大石信重に棟別銭を徴収するように命じている。大石信重は武蔵国の目代(もくだい)であり、武蔵国の国衙の最高責任者であった。棟別銭は、まだ地方行政機関としての命脈を保っている国衙のしくみを通じて賦課された。いわばこの時代の守護は、前代の遺制である国衙を利用し、自己の権力機構にとり入れ、領国支配のてことしている。こうした支配体制は、個々の地頭が幕府の御家人として所領支配を保証されていた体制が変質したことを物語るのである(守護領国制)。

 帆別銭は、国内一律に徴収する段銭や棟別銭と異なり、対象が港に限られているが、室町幕府――鎌倉府――武蔵国守護――武蔵国衙・目代・守護代という支配のしくみで、その徴収が保証された。品川湊の帆別銭徴収にあたって、品川郷の領主品河氏は、まったく関係していない。せいぜい寺家の雑掌が常駐する家屋を指定する働きだけであったらしい。前述のように武蔵国守護上杉憲定は自分の所領神奈川郷の湊に帆別銭をかけているのであるから、上杉氏による品川湊支配の意図は明らかである。品河氏の出る幕は、はじめからなかったのであろう。


第30図 街道と店屋と船(『山王霊験記』)

 永徳四年から八年後、明徳三年(一三九二)から応永三年(一三九六)にかけて、ふたたび品川湊の史料が現われる(「金沢文庫文書」)。そのうちの一通を紹介したい。

   (端裏書)「壬申湊船帳自正月至子八月品河付分」

    湊船帳

 鎌倉新造   船主正一        問正祐

 大塩屋新造  〻〻次郎□衛門     問同

 奥加丸    〻〻瀬戸(子)三郎   〻〻

 和泉丸    〻〻助次郎       〻〻

 小新□(丸) 〻〻善契        〻〻

 小寺丸    〻〻祐□        〻〻

 本郷丸    〻〻弥松大夫      問国阿□(弥カ)

 馬漸本丸   〻〻助次郎       〻〻

 夷丸     〻〻大夫次郎      〻〻

 境寺丸    〻〻大(太)郎大夫   〻〻

 次郎丸    〻〻六郎大(太)郎   問行本

 寺丸     〻〻馬漸□衛門     〻〻

 藤原小新造  〻〻三郎兵衛      〻〻

 参河丸    〻〻□□(伊豆カ)衛門 〻〻

 日吉丸    〻〻中大夫       〻〻

 鎌倉丸    〻〻六郎        〻〻

 小橋丸    〻〻和泉次郎      〻〻

 小本丸    〻〻[  ](虫)   〻〻

 小新造    〻〻治部次郎      〻〻

 藤原杉丸   〻〻庵主        〻〻

 友新造    〻〻禅阿弥       〻〻

 子持丸    〻〻馬漸弥松大夫

 鎌倉丸    〻〻新関正一

 通本丸    〻〻通四郎大夫

 小橋丸    〻〻河祐助次郎

 安田丸    〻〻善契

 鎌倉丸    〻〻了阿弥自未年成湊舟元六浦

 蔵丸     〻〻道朝自申年成湊舟元品河

 福田丸    〻〻洲崎殿

 河内丸

  明徳三壬申至于八月、品河付湊舟如此、

 この史料のすべてを解明する余裕はないが、明徳三年の正月から八月にいたる八カ月間に、品川湊に寄港した船三〇艘の書き上げであって、船名と船主名と問(とい)の名がみえる。貨物の輸送と保管、商品の委託販売を業とする三軒の問があり、「湊舟」といって品川湊を母港とするらしい船二艘があることなど、興味深い。

 この史料のほか、明徳三年から応永三年まで五年間の品川湊と神奈川湊の帆別銭徴収帳がある。便宜上表示すると第3表のようになり、五年間で総額三三九貫文余という多額な帆別銭が徴収されたことがわかる。

第3表 神奈川湊・品川湊の帆別銭徴収
年次 港名・帆別銭額 摘要 小計 総計
明徳3年 神奈川分 20貫文 12貫文 寺家代官徴収 2・4・7・10月分で16貫文 46貫文 339貫300文
8貫文 道阿弥請負
品川分 26貫文 18貫文 寺家代官徴収 2・4・6月分で12貫文
8貫文 道阿弥請負
明徳4年 神奈川分 53貫文 8貫文 道阿弥請負 正月から12月まで 59貫文
45貫文 井田殿請負
品川分 6貫文 道阿弥請負 10・11・12月分
応永元年 両津分 132貫文 正月から12月まで月別10貫文,ただし8月以降は半額を当月に納め,半額を翌年納入 132貫文
応永2年 両津分 29貫文 29貫文
応永3年 両津分 73貫300文 73貫300文

 

 ところで両港にかけられた帆別銭が、何に使われたかというと、明徳三年ごろから始まる金沢称名寺(現横浜市金沢区)の金堂(こんどう)造営費用にあてられたのである。この工事にかかった費用は総額二七四貫四〇五文であったが、称名寺はこの総額に対して二五二貫を帆別銭から支出し、二二貫四〇五文を寺領年貢から支出している。称名寺という大寺院の本堂建設費のうち、じつに九一%が品川湊・神奈川湊から徴収した帆別銭であり、なお九〇貫ほどの余りを生じているのである。

 応永三年以後、品川湊の様子はまたはっきりしなくなる。ほぼ百年後の長享二年(一四八八)四月、紀伊から数千石の米を積んで品川湊に入った商船数艘が、暴風雨に遭って沈没したということを、江戸城主太田道灌に招かれて江戸を訪れた詩僧万里集九が、その詩文集「梅花無尽蔵」に書いている。品川湊が東京湾航路の港としてだけでなく、遠隔地商品流通の基地として発展している様子がうかがえる。

 同じころの文明八年(一四七八)八月、太田道灌は京都五山・鎌倉五山の僧たちに依頼してできあがった江戸城を讃える漢詩を板に彫り、城内の静勝軒のひさしにかかげた。建長寺の長老暮樵得公が撰んだ「左金吾源大夫(太田道灌)江亭記」は、江戸城からの眺望を次のように詠んでいる。

 

南顧すればすなわち品川の流れは溶々様々としてもって碧を染め、人家北南に鱗差(りんさ)して白塔紅桜は鶴立〓飛(かくりつきひ)し、もってその中に翼然(よくぜん)たり、東武の一都会にして、揚一益二の亜称あるなり、

   揚州は現中国江蘇省江都県、唐代随一の繁華な商業都市、益州は四川省成都。

 江戸城から南をながめると、品川(目黒川)はひろびろとゆるやかに流れて碧(あおみどり)に映え、人家は南北にうろこのようにつらなり、白塔紅樓(妙国寺の堂塔か)が高くそびえて、あたかも帝王の宮殿のごとく壮麗に人家の中に翼をはっている。まことに品川は東武蔵の都会であって、揚州や益州にも劣らないといわれるゆえんである、というのである。五山の詩僧一流のおおげさな表現であるから、相当割引きしなければならないが、室町時代の品川は明らかに都市的景観をもってきた。洲崎裏の入江ぞいと目黒川河口に問(とい)の倉庫がならびたち、貨物を運ぶ労働者がいそがしくたち働き、沖合には諸国からいろいろな物資を満載した船が停泊して、まわりを艀(はしけ)がとりまく。東海道の街路には旅人や水夫相手の小店舗が軒をつらね、人びとがゆききするという情景があったであろう。