鈴木道胤

71 ~ 74

 後北条氏の遺臣三浦浄心が、小田原後北条氏五代にまつわる関東の歴史や逸話を書きとめた『見聞集』に、次のような話しがある。

 

今品川に五重たう(塔)有、昔鈴木道印と云うとく(有徳)なる町人立(たてる)なり、幸順と云(いう)息あり、父子連歌数寄(すき)なり、其比(ころ)都に権大僧都心敬と云連歌師あり、道印父子と知音(ちいん)なり(中略)心敬と道印父子他に異なる知音故、品川にては毎年心敬の下向を待かね、京にては心敬は秋来るをおそしと待て、いそぎ品川へ下り、明けくれ連歌せられたりと語る、我(浄心)聞て道印父子七堂がらんを建立し、福徳のしるし見えたり、

 

 浄心は続けて道印父子は連歌が好きであったが下手(へた)だったにちがいない。なぜなら道印も幸順も名前のついた発句一つ残っていないではないか。また心敬にしても京に有名な連歌師がいくらもいるのに、東のはずれ品川の鈴木などをなつかしみ、海山こえてはるばる下ってくる気がしれない、と皮肉を飛ばしている。

 これは三浦浄心のとんでもない認識不足であった。心敬は京都清水(きよみず)十住心院の僧都で、名実ともに当代随一の連歌師であった。心敬の回想が「東(あずま)の方にあひ知れる長敏といえる人、便船を送りてねんごろに富士などこのついでにと侍れば、波にひかれてたゞよい侍り」(「ひとり言」)、「うきねの夢をかさねし程に、なく/\武蔵の品川といへる津にいたり侍り」(「老のくりこと」)というように、文正元年(一四六六)六月、鈴木光純と考えられる長敏の招きで品川に下向し、翌年の応仁の大乱に遭遇して帰洛の途を失い、そのまま品川に草庵を結ぶのである。さしづめ道胤・光純父子は心敬のパトロンであり、その素養がうかがえる。たしかに道胤は太田道灌を招き、心敬が発句に「九つの品川ちぎるはすね(蓮)かな」と詠んだ「品川千句」の会を催したし、文明元年(一四六九)の初春、太田道真(道灌の父)主催の「川越千句」に父子ともども参会している。道灌・心敬・道胤父子をつらねる品川のサロン的気分がわかるようだ。

 ところで、三浦浄心が品川の翁から聞いた話しの七堂伽藍は、現在の南品川二丁目にある妙国寺のことである。この寺は弘安年中(一二七八~八七)の創建と伝えられるが、文安ごろ道胤・光純が施主となって堂塔を再建したのである。完成の時期に異説があるが、妙国寺の旧梵鐘銘文に「大檀那沙弥道胤」が「文安三(一四四六)年丙寅季冬中旬第三天」に寄進したとあるから、文安前後の再建工事は明らかだ。特記すべきは、三浦浄心も注意している妙国寺の五重塔である。おそらく江戸近傍の唯一の塔であったろう。この五重塔は慶長一九年(一六一四)八月二八日の大風で倒れた。浄心が「此塔百六十九年をさかんにして、滅する時期にあへり」と他人事のような感想を述べたのに対して、品川の人びとは「此塔品川の名物、所のかざりなるを、悪風そん(損)さすもの哉(かな)と風を恨む」と答えたという。品川の人々の愛着がよくわかる。妙国寺の塔は品川のシンボルであったろう。湊に出入りする船も、街道を急ぐ旅人も、品川をとりまく村々の農民も、この塔の下に品川の町並みがあることを知っていたのだから。


第31図 妙国寺絵図(『新編武蔵風土記稿』)

 連歌師心敬を招き、妙国寺の堂塔を建立して、後の時代までその有徳(うとく)ぶりを伝えられた鈴木道胤とは、いったいどのような人であったろうか。「妙国寺文書」によると、宝徳二年(一四五〇)十一月十四日に関東公方足利成氏は「品河住民道胤」の蔵役(くらやく)を免除した。一般に蔵役とは、室町幕府が土倉(どそう)=質屋に課した土倉役(税金)のことをいうが、道胤が成氏から免除された蔵役も、これに類するものであったろう。そうだとすれば、道胤は高利貸金融業者ということになる。しかし、私たちは品川湊には、ほぼ六〇年前の明徳三年(一三九二)に三軒の問(とい)があったことを知っているのであるから、道胤を問(とい)業者と想像することは不自然でない。また心敬は長敏(光純か)がさしむけた便船で伊勢から品川へ渡っているし、妙国寺の縁起に道胤を紀伊熊野の鈴木氏の子孫としていることなど、品川湊と伊勢・紀伊など西国諸国とのなみなみならぬ関係を考えさせる。道胤は西国の廻船業者によく知られた問であったのではなかろうか。おそらく道胤は、問の経営で蓄積した財をもとに質屋の経営にものりだし、巨額な財産をつくりあげたのであろう。残念ながら、彼の問と蔵の営業の実態を明らかにできないが、品川湊の発展が道胤のような富裕な商人を生みだしたことはたしかである。ちなみに品川の北馬場(ばんば)・南馬場の地名は、道胤の馬場に由来するという。


第32図 足利成氏判物(「妙国寺文書」)

 道胤と同じころ、品川に有力な一族が現われる。江戸時代の初めに品川明神社神主家と北品川宿名主家小泉氏に分れた宇田川氏である。「宇田川氏系図」によると、江戸日比谷に住んでいた宇田川和泉守長清というものが、長禄元年(一四五七)の太田道灌による江戸城築城にさいして、北品川に移されたという。一六世紀に入ると、江戸時代の南品川宿名主利田(かがた)氏の先祖鳥海氏の姿もみえてくる。現南品川一丁目の海徳寺は、寺伝によると大永二年(一五二二)に、鳥海和泉守某が自分の屋敷を寄進して創建した寺院である。

 後北条氏の治下、鳥海氏は宇田川氏とならび南北品川の町役人として登場する。このような鳥海氏を海徳寺の開基と伝えていることは、品川の寺院の性格をよく物語っている。旧品川地域には寺院が非常に多い。品川は東京でも有数の寺院集中地域なのである。しかも伝えられる創立年代は古い。所伝を無条件に信ずるわけにいかないが、概して品川の寺院の多くは室町時代に建てられたようである。古い時代に創立が伝えられる寺院も、いつしか廃絶・衰退し、室町・戦国時代に再興されたらしい。品川が湊町としての機能をそなえ、小規模ながら港湾都市的な形態をととのえた室町時代こそ、問に代表される商人たちを開基や外護(げご)者とする寺院が建てられるのに、もっともふさわしい時代であった。